アマゾンプライムで「オーケストラの少女」という邦題の映画を見ました。原題は「One Hundred Men and a Girl」。
「100人の男と1人の少女」では切れが悪いので、「オーケストラの少女」としたのでしょう。
正直、最初の5分ほどで挫折しそうになりました。
何しろ、1937年に制作された映画なので、画質は非常に悪い。
それよりも、指揮者を映し続ける演奏シーンが長すぎる。こういうオープニングではほとんど期待できないだろうと思いつつ、しばらく辛抱してみようと思ったのです。
ところが、ヒロインのディアナ・ダービンが登場して数分後に、スイッチが入ってしまいました。
娘と父親、そしてその仲間たちの物語であることが、明示されます。物語は、娘の大きな勘違いから転がり始めるのです。
そこからは、ラストまで一度も退屈することなく、一気に見してしまいました。
一言でいいますと、この「オーケストラの少女」は奇跡の映画です。
古い映画はすぐに挫折しないで、しばらく辛抱して見ることが肝心。
「オーケストラの少女」の監督は、ヘンリー・コスター。主演はディアナ・ダービン。
1930年代の映画は当たりはずれが激しいので、最初の10分間くらいで挫折してしまうこともあります。
なぜ、「オーケストラの少女」の出だしがつまらないかというと、名指揮者として知られるレオポルド・ストコフスキーと実在のオーケストラであるフィラデルフィア管弦楽団が出演しているからです。
これは明らかに特別企画であり、当然、ストコフスキーとフィラデルフィア管弦楽団の出演が多くなります。
特にストコフスキー本人が出演しているので、オープニングからストコフスキーのアップが続いたのだろうことは、あとで資料を読めば想像に難くありません。
しかし、私の場合、全く予備知識がない(ストコフスキーも知らない)真っ白な状態で見始めているので、「この出だしは、ちょっとつまらないかも」と感じてしまったわけです。
実はこういうことは、ほとんどどうでもいいのです。それくらい、「オーケストラの少女」は魅力あふれる映画でした。
「オーケストラの少女」の音声解説は以下からお聴きください。
「オーケストラの少女」が『奇跡』である理由。
今という時代から見たら、奇跡のような映画です。以下で、「オーケストラの少女」が奇跡の映画である理由を、あげてみましょう。
1)娯楽が少ない時代だからこそ、夢物語が奇跡の輝きを得た。
1937年という時代を想像してみることは重要です。今とは比較にならないほど、娯楽も、情報も少なかったし、一般大衆の暮らしは貧しかったことでしょう。
パソコンも、スマホもなし。インターネットも、ゲームも、YouTubeもありません。そして忘れてはならないのは、テレビ放送すらなかったのです。
テレビがない、インターネットも、スマホもない時代は、情報は少なかったけれども、人の心は豊かなだったと言い切っていいと思います。
「オーケストラの少女」は、情報に汚染されていない時代だからこそ、制作できた映画。大衆の心も、情報で汚染されてはいなかった。だからこそ、観衆に与えられる夢という名のプレゼントは、とびっきりの輝きを得たのです。
2)奇跡の少女が誕生。
ディアナ・ダービンが演じる主人公は、何と表情の豊かな少女であることか。笑い、泣き、怒り、希望し、走り、動き回り、そして歌う、ついには途方もない夢をかなえてしまう……。まさに、奇跡のような少女がこの映画で誕生したのです。
3)奇跡など起きないという、現実の壁が崩壊する奇跡。
100人もの失業している演奏者たち。彼らが輝く舞台は実現するのか? 夢ははかなく消え去ろうとした時、一人の年老いた音楽家がこう言います。
「少しだが、楽しめたよ。一瞬でも幸せだったさ」
「やはり現実は厳しい」と誰もがあきらめかけました。ところが、ディアナ・ダービンの奇想天外なアイデアとちゅうちょしない行動力によって、現実の壁をものの見事に打ち破ってしますのです。
「奇跡が起きる映画」は他にも、あります。以下の記事を、ぜひお読みください。
ディアナ・ダービンが発する強烈なオーラ。そして、その深い意味とは?
古い映画が好きな私ですが、うかつにも、ディアナ・ダービン出演の映画を見たことがありませんでした。
今回はたまたまアマゾンプライムで見つけたのですが、これだけ魅力あふれる映画ですから、デジタルリマスター版を出してほしいと思いますね。
それはともかく、ディアナ・ダービンの強烈なオーラ、その純度の高さに驚嘆しました。
ディアナ・ダービンが演じた少女の「圧倒的な生命力」を感じるだけでも、この「オーケストラの少女」を見る価値があると思います。
しかし、見終わってしばらくしますと、複雑な心境になったのです。
ディアナ・ダービンのオーラが純粋であればあるほど、このような現代にこのまま生きていていいのだろうかという気持ちがつのってくる。
ふと、「もうこういう映画は出てこないだろうし、こういう映画に共感できる人もやがて絶滅するかもしれない」と思ってしまったのです。
私のような「貧乏暇なし」を絵にかいたような生活をしていますと、なかなかじっくりと映画鑑賞を楽しむ時間はとれません。
今回は運よく「オーケストラの少女」に感動できましたが、一つ間違うと、途中で挫折してしまったかもしれないのです。
時代はとんでもないところまで来てしまっていると思います。情報があふれかえり、娯楽もあふれかえっている時代は、人を汚染し、疲労させてしまう。
心を汚染する、情報、娯楽、便利機器などを、ばっさり捨てる勇気が必要かもしれませんね。
現代では、余計なものがあふれすぎているけれども、きわめて大事なものが激減し、ほとんど顧みられない。
「映画」は娯楽であり、大衆芸術ですが、本来、消耗品であってはならないと思うのです。次々に消費する、つまり、見れば終わり、あとはきれいさっぱり忘れてしまうのでは味気ないでしょう。
かつての優れた文学作品がそうであったように、映画も「生きる糧(かて)」「心の栄養素」であってほしい。
いえ、古き良き時代の映画を鑑賞することで、しばし現実の垢を流すのでは、現実逃避をするだけでは、あまりにももったいないのです。
映画から浴びた良質なオーラを、自分が目指す未来に向かって現実を変えてゆく力に変換する、積極的な行動が私自身に求められている、と私は強く思い始めています。