「風花回廊」とは?

風花回廊(かざはなかいろう)」の第一弾として始めた「言響(こだま)プロジェクト」通称「こだま」。その続きはどうなる?と思っている方もおられるかと思いますので、今後の予定について、少しお話しさせていただきます。

その前に「風花回廊」の意味をご説明します。

「風花回廊」。

「かざはなかいろう」と読みます。

「回廊」は、長い曲線の廊下のこと。社寺では聖域を囲む廊下を指します。

「聖域を囲む廊下」って、難しいですよね(笑)。

実は、難しいことは全くなくて、

風花式では「大切なものと大切なものをつなぐ道」くらいの意味で使用することにしています。

さて「風花回廊」は、その名のとおり、たいへん長いシリーズとなります。

これから、長い時間をかけてご提供させていただくシリーズ全体を総称して「風花回廊」とネーミング。

その「風花回廊」の第一弾が、今回ご提供いたします「言響(こだま)プロジェクト」です。

2011年6月から12月まで、半年間にわたって行われた「言響プロジェクト」。

「こだま」を開催してみて強く感じたのは、多くの人が様々な不安を抱えていること。

精神的不安、経済的不安、物質的不安、肉体的な不安と……不安にもいろいろあるわけですが、私としては精神的な不安の問題が一番大きいと思っていたのでした。

ところが、私の深読みによれば、まずは経済的な不安がなくならないかぎり、精神的な不安もなくならない……と感じている人たちが圧倒的に多いこと。こういうことは、あからさまには言いにくいので見えづらいのですが、本音では、そう思っているでは?と痛いほど感じる日々が続きました。

平たく申しますと「言葉」どころではない、というのが実情なのではないでしょうか。

今の私はというと、経済的にはそれほど深刻な悩みはありません。しかし、職がない時期、仕事を辞めた時、フリーランスで食べてゆく技術やネットワークがなかった頃のことを想い出せば、お金に困ったら、やはり、豊かな生活はしにくいことは、体感的に理解できます。

10~20代前半までは、ぎりぎり食べられたらよいと私も考えておりました。一言でいえば、その日暮らしの感覚です(笑)。さすがに今は、長い期間を展望して、計画的に暮らしてゆきたいと思っています。

これまでの自分の経済状況を振り返りますと、経済的に豊かな時でも、不安は消えたことはありませんでした。きっと、それは何かが欠けた状態で走っていたからだと思うのです。

その何かとは? これに気づくのに、長い時間がかかりました。

で、現在はどうかというと、ライフワークとなる仕事をしたいという気持ちが一番強いのです。

「言響(こだま)プロジェクト」のテーマは「言葉」です。

ですから、最も精神的な不安に直結しているはず。でも、多くの人は「言葉の大事さはわかるけれど、それよりも、これからどうやって食べてゆけば良いのか、そちらの方をまず解決しないと他のことは考えられない」と感じているみたい。

人間の幸福は、心だけではかなえられない……それが真実だとすれば、まずは合理的に経済的な問題を解決してしまえば良いのです。就職もせずに、フリーランスで経済的に自立して長いので、ノウハウは持っています。そのためのお手伝いに半年くらいはエネルギーを傾注するつもりです。

私は個人事業主ですから、税金・保険・年金などのことを考えると頭が痛いのですが、経済的な問題も逃げて通れるものではなく、いくつかある問題の中でも、「経済」は重要なことは間違いありません。

では、「言響プロジェクト」は止めてしまうのかというと、絶対にそうはなりません。「言葉」というテーマには、一生関わってゆく決心はついています。

ただ、「言葉」だけを、精神的な問題だけを、ワンテーマとして押し切るのではなく、大きな回廊の一つに「言葉」をおき、円を描くように、 一つひとつのテーマを形にして、具体的な成果を生み出してゆこうと思っています。

いくつかの建物があり、それらをつないでいるのが回廊と呼ばれる道で、私は案内人だと思っていただけたら幸いです。

ご案内する時に、もっとも大切にしたいのは「会話」。いえ、「回話」と書いた方が正確かもしれません。その具体的な方法も、来年、ご披露いたします。

私のライフワークは「風花回廊」と決めました。

いつくかの建物があり、その中には、精神的不安、経済的不安、物質的不安などを解決できる部屋をご用意いたします。

夢とか希望、悩みとか不安は、さまざまな要因が絡み合っているので、一つだけを取り出して、治癒しようとしても無理があります。

大きな円の中に、いろんな要素があるので、それらを回廊で結んで行ってやれば、心穏やかで豊かな日常が送れると私は信じています。

一生かかってでも完成させたいのが「風花回廊」という大きなプロジェクト(円運動)です。

「風花回廊」で結ばれる建物が、風花シリーズに他なりません。これまで「心伝」「乱舞」「瑠璃」を発表してきましたが、「風花回廊」という大きな視座がなかったので、すべて改良してゆきたいと考えています。

「たゆたう」時を愉しむ。【美しい日本語】

「美しい日本語」というカテゴリを設けたのですが、なかなか記事が書けませんでした。

 

「美しい日本語」に関する本は多数出版されていますし、そういうネタ本から引っ張り出せば、容易に書けるでしょう。しかし、それでは味気ないし、気が乗りません。

 

そこで、今回は私自身が思い入れのある「美しい日本語」をご紹介しましょう。

 

それは「たゆたう」です。

 

大辞林は「たゆたう」を以下のように説明しています。

 

(1)物がゆらゆら動いて定まらない。ただよう。

 

「波間に―・う小舟」

 

(2)心が動揺する。ためらう。

 

「父はあまりの事に、しばし―・ひしが/うたかたの記(鴎外)」「今は逢はじと―・ひぬらし/万葉542」

 

〔終止形・連体形は「たゆとう」とも発音される〕

 

「たゆたう」を現在、「ためらう」という意味で使う人はまれだと思います。

 

私の場合は、「ゆらゆらと漂っている」という意味で、ある状態を表現したいのです。

 

例えば、「たゆたう時を、しばし味わう」とか。

 

効率化を追い求めるあまり、日常では、何の目的も持たない、ぼんやりとした時間が極めて少ないのです。そうした慌ただしい日々の中で、ゆらゆらと揺れている、ふんわりとした時間を味わうことは、かなり贅沢な楽しみだと感じます。そこで「楽しみ」ではなく、「愉しみ」と表記したいのです。

 

「たゆたう時を愉しむ」と書くと、私的には、しっくりくるのですが、いかがでしょうか。

 

美しい日本語は、骨董品のように飾っておくのではなく、日常から積極的に使いたいものですね。

 

今後、ご紹介する日本語も、その使い方についても、ごいっしょに考えてゆきましょう。

「伝わらないこと」を怖がっていたら何も書けない

先日アップしたました池上彰「その日本語、伝わっていますか?」で感じたことという記事ですが、言葉が足らなかったと思います。

要するに、Web文章などは特にそうですが、「わかりやすく書く」ことに心をくだくべきです。しかし、無理に「わかりやすく書く」必要はない、と最近になって強く思うようになっています。

簡単にできることを無闇に難しくすることは無意味です。でも、すべてのことを、わかりやすくできるわけではありません。

どうしても簡単にならないけれど、たいへん重要なこともあります。

何でもかんでも、わかりやすくすれば良いということではないし、わかりやすさへの努力はすべきだけれども、結果としてわかりにくくなっても仕方がない時もあると思うのです。

一番大切なのは、語るべきことを語ること、語るに価することを語ることだと強く感じています。

例とするには、「わかりやすくなく」、難しそうに感じるかもしれませんが、ドストエフスキーの小説を想い浮かべてください。

例えば「罪と罰」。この小説は、「伝わらない」ことを怖がっていたら、書けないでしょう。

「罪と罰」は、わかりやすいかというと、どうでしょうか?

少なくとも、難しくはありません。難しくはないけれど、ただ、やたらと深いのです。

複雑な内容が書かれているかというと、むしろ、単純です。

単純だけれども、深いので、わかりやすくは感じない人が多いかと思います。

物事を整理して、わかりやしくした方が良いという風潮がありますが、ドストエフスキーの小説は、何も整理されておらず、人間関係がグチャグチャであり、登場人物が葛藤しつづけ、混沌の中に真実を見出そうと希求するけれども、さらなる泥沼にはまっていってしまう……そうした、ごちゃごちゃした世界がドストエフスキーの魅力にほかなりません。

いえ、ドストエフスキーにかぎったことではなく、およそ、極めて重要なことは、「わかりやすく」語れる場合の方が少ないのです。

ですから、薄っぺらな精神で、「わかりやく語りましょう」というのではなくて、実は真実はほとんど断言していいほど「わかりやすくできない」ものだから、まるで闇の中をさまようようなものだから、せめてロウソクぐらいはつけましょう……ぐらいの気持ちで「わかりやすい」という言葉は使うべきだと思うのです。