溝口健二監督の映画「雪夫人絵図」を見たが、久しぶりの落胆を味わった。
「雪夫人絵図」は、1950年10月21日公開。新東宝・瀧村プロ製作、新東宝配給。主演は木暮実千代、上原謙。
名匠・溝口健二監督には失礼だが、これは駄作と言わざるを得ない。
制作された年が1950年という時代背景を考慮しても、描かれているヒロインの生き方があまりのも古すぎる。
例えば、川島雄三監督の「あした来る人」は1955年に制作されているが、新しい女性の生き方を描いている。
溝口健二の助監督をつとめていた増村保造監督が「溝口健二の描く女性像は古すぎる」と発言したが、この「雪夫人絵図」を見ると、そう思わざるを得ない。
というか、映画監督ならば「雪夫人絵図」のような後ろ向きな映画を世に出してはいけない、とさえ思った。
「雨月物語」と「近松物語」は、確かに凄い。しかし、「雪夫人絵図」のような映画を撮ってしまうあたりに、溝口健二監督の弱点(限界)があるのではないだろうか。
映画は郷愁や懐古趣味がテーマになってしまってはいけない、と私は思う。
主人公は、どんな生き様であれ、軸を屹立させる、自分を貫く姿勢を示してこそ、視聴者に共感されるのだ。
増村保造には、溝口健二のような高い美意識はないが、新しい人間像を生み出すために、思い切った実験を数えきれないほど試みている。
二人の生きた年代を比較してみよう。
溝口健二(1898年5月16日 - 1956年8月24日)
増村保造(1924年8月25日 - 1986年11月23日)
生きた時代が違い過ぎるのである。
溝口健二が新しい時代の新しい生き方をする女性を描き切れなかったのは、溝口が描出したかったが、まさに「古い女性」だからだ。
しかし、その観点から見ても「雨月物語」と「近松物語」には、危機迫る女性像が鮮明に映し出されていて、時代を超えた人間美と様式美を獲得しているのは凄い。