映画の「マディソン郡の橋」は、評価が大きく分かれているという話を、あるゼミで聴いたことがあります。小説の方は「ハーレクイン・ ロマンス」の水準を超えていないと断罪する人もいるらしい。
小説も映画も、そんなに悪い作品ではないですよ。純文学作品でもないし、芸術祭参加作品でもありません。
しかし、低劣な娯楽作品かというと、そうではなく、読んだ後に、見終った後に、何かが残る作品、それが「マディソン郡の橋」という小説と映画だと私は素直に感じています。
そんなわけで、大流行したにもかかわらず、あるいは大流行したために、世間的な評価が低い「マディソン郡の橋」について、今回はフォローアップしてみたいと思うのです。
●小説「マディソン郡の橋」の評価
まずは原作の良さから。1992年の作品。著者はロバート・ジェームズ・ウォラー。実話を小説化した作品だと思っている人が多いが、実は全くのフィクション。
1)まず舞台設定がいい。マディソン郡のローズマンブリッジという場所は、なかなか思いつかない。舞台設定で相当に得をしている作品。
2)時代の設定がいい。時代は確か60年代だと思う。ジッポのライターとは3輪のトラックなどのディテールがいい。男のほうはカーボーイの生き残りということを自分で言っていた。
3)時間の限定。二人が出逢って別れるのは、たった四日間という時間の限定もすばらしい。だらだらと、ひっついたり別れたりするのを見せられるのはたまったものではない。
4)二人の年齢と職業の設定。カメラマンと農婦、しかも二人はかなりの年齢に達している。だから、ニュアンスが余計に微妙になる。
5)飾り気のない文体も、好感が持てた。
まだ原作の小説を読んでない方は、ぜひオススメしたい。誌面から、豊かな詩情が薫りたってくるのを感じるに違いない。これは小説というより「詩」。
以前にはこんな記事を書いたことがあります⇒小説「マディソン郡の橋」のロバート・キンケイドの言葉
●映画「マディソン郡の橋」の評価
では、映画はどうか。1995年作。監督は、クリント・イーストウッド。
いろいろと文句をつける人もいるかもしれないが、僕は名画の一つに挙げられていいと思っている。
上記の分析の通り、「設定」は天(時間)・地(舞台)・人(人物)は、完璧なのだ。
しかし、それを映画だから、それをできるかぎり自然に映像で見せなければいけない。
フランチェスカ・ジョンソン役を演じた女優、 メリル・ストリープは、そのためにかなり太ったらしいが、そういう役者魂は貴重。
今の邦画の多くの作品みたいに、短時間で手抜き工事で作る映画と、もう制作の出発点で意気込みが違っている。
自由で繊細な心を持つカメラマン(クリント・イーストウッド)と、素朴で教養もある農婦と出逢いと別れを、物の見事に二人は演じきっていた。それだけでも、賞賛したいくらいだ。
この映画を見ると、とってつけたような安っぽさい映像とか、そらぞらしい役者の演技は皆無だった。
もちろん、描かれている内容には好き嫌いはあるだろうが、映画を愛する者はたいていは肯定的にこの映画を評価するのではないかと勝手に思っている。