「運命愛」という言葉を初めて知ったのは、たぶん、ニーチェの著作を読んた時だったと思います。何やら、人生の深淵めいたものを感じましたが、まだ二十歳になったばかりの私には「運命愛」の真意はわかりませんでした。
あれから、長い歳月が流れ、ようやく、運命を愛することの意味が理解できてきたと感じます。というか、哲学や宗教に頼らなくても、ふつに語れる言葉だと思うのです。
平穏無事に人生を送ることは不可能です。どんな人生にもアップダウンはあり、幸福だけが続くことはありません。
私自身、極めて弱い人間であり、二者択一といった切羽詰まった選択を迫られることは苦手です。
しかし、人生にも、時代にも、ぎりぎりの選択が求められる時はあります。
戦争か平和か、愛か憎しみか、許しか報復か、肯定か否定か、生か死か、などなど……。
難しいのは、自分が希っていることとは逆の選択をしなければならないこともあるということ。
平和を願いながら、戦争をしなければならない運命もあります。愛しながらも、離別しなければない時もあるのです。
ただ一つ、はっきりしているのは、すべては人間の業であり、営みだということ。それらを、まるごと、受け入れられるパワー(力)が「運命愛」だと思うのです。
その「愛」には、すさまじいエネルギーが含まれ、太陽と水と大地が、植物を育てるような健全な力が宿るのだと、信じられるようになりました。
「運命愛」は決して感傷的な言葉ではなく、大いなる恵みである大自然がそうであるように、たいへん厳しい言葉です。「勇気ある肯定」、あるいは「命がけの受容」と呼ぶべきでしょうか。
肉親の死を、私は三度経験しています。父母と兄の死です。愛する者の死も、受け入れなければ、人生は闇に閉ざされてしまうでしょう。
人生で最も鮮やかな対照は、生と死でしょうか。光があるから、影がある。影があるから、ものの存在の意義を知ることができます。
死は、忌み嫌うべきものではありません。ある民族は、人の死を祝うといいます。運命を愛するために、死を見つめることも、避けるべきではありません。
いえ、人生を光に満ちたものにするためには、死を正視することは不可欠なのです。
このように考えてくると、死は闇ではなく、光であり、生と死は分かれているのではなく、連続していると感じられてきます。
今もなお「運命愛」という言葉を定義はできませんが、この言葉が、これほどまでに身近に感じるようになるとは、予想できませんでした。私的ではありますが「運命愛」を、美しい日本語の一つに加えたいと思います。