歴史の転換点で紡がれた「肯定の炎」:W. H. オーデン『1939年9月1日』を読む
1939年9月1日。この日は、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、人類史上最も凄惨な悲劇となる「第二次世界大戦」が幕を開けた日です。
イギリス出身の詩人W. H. オーデン(1907-1973)は、まさにその歴史的転換点の日、移住先であるアメリカ・ニューヨークの安酒場(ダイブ・バー)の片隅に座り、迫り来る巨大な暗雲を見つめながらこの詩を書き上げました。
社会の不安、人間のエゴイズム、そして「それでも人間は愛し合わなければならない」という祈りに満ちた本作は、20世紀を代表する名詩の一つです(後に2001年のアメリカ同時多発テロ事件の際にも、人々の心を癒やす詩として広く読み直されました)。
まずは、以下、全文を引用します。
1939年9月1日
52番街の安酒場で
不安と恐れを抱きながら
俺がひとりで座りこんでいると
低劣でいい加減な10年間が
希望もなしに消え去っていく
怒りと恐怖の感情が
地上のところどころで
波のように渦巻いて
俺たちの生活にまとわりつき
名状しがたい死の匂いが
9月の夜を挑発する
まともな学問なら
ルターから今日に到るまで
文明を狂気に駆り立てた
すべての罪業を明らかにできる
リンツで起きたことを見よ
どんなに巨大な妄想が
異様な神を作り出したことか
どんな生徒たちだって
人に対してなされた悪と
それへの復讐について
学習するようになるものさ
追放の身のトゥキディデスは
デモクラシーについて何がいえるか
独裁者たちが何をするか
老人たちが墓場にむかって
どんな繰言を繰り返すか
そのことをよく知っていた
その上で歴史書に書き込んだのだ
追い払われた啓蒙運動
習慣を形成することの苦しみ
失敗と痛恨と
人はこれらすべてを甘受せねばならぬと
盲目の摩天楼が
そのすさまじい高度によって
人間の集合的な力を示している
その中立の空の中に
諸民族の言葉が競い合って
空虚な命題を注ぎ込む
だがだれも幸福な夢を
何時までも見続けていられない
鏡の中から現れてくるのは
帝国主義の顔と
国際的な悪行だ
バーに並んだ顔は
平凡な毎日にしがみついている
灯りは消してはならぬ
音楽はいつでもやってなきゃならぬ
何もかもが共謀して
この砦を家具のように
見せかけようとしている
俺たちがいったいどこにいるのか
わからせまいとするかのように
俺たちときては幽霊のいる森の中で迷い
夜を怖がっている子どもみたいだ
戦闘的なたわごとも
重要人物の演説も
俺たちの望みほど粗野じゃない
狂ったニジンスキーが
ディアギレフについて語ったことは
普通の人間についてもいえることだ
男と女の骨の髄にまで
染み付いている罪業は
持ち得ないものを熱望することだ
普遍的な愛では満足できずに
自分ひとりだけが愛されることを熱望する
因習の闇から
倫理的な生活へと
おびただしい数の通勤客がやってきて
いつもどおり朝の誓言をする
「今日も女房を大事にして
一生懸命働くぞ」
頼りない亭主たちが毎日起きるのは
変り映えのしないゲームをするためさ
だれがこいつらを解放してやれるだろう
だれがつんぼの耳に語りかけられるだろう
だれがおしの口に語らせられるだろう
もつれた嘘を解くために
俺が持っているのはひとつの声だけだ
その嘘はありふれた人間の
脳みそに巣くうロマンティックな嘘だったり
空を手探りする
高層ビルの権威に巣くう嘘だったりする
この世に国家などというものはない
また孤独な人間というものもない
飢えは市民にも警察官にも
わけ隔てなく訪れる
俺たちはお互いに愛し合わねばならぬさもなくば死だ
宵闇の中で無防備に
世界は昏睡して横たわっている
だが正義がメッセージを交し合うところ
そういうところではいたるところ
点々と光が交差して
まぶしい耀きを放っている
俺もエロスと泥から作られており
同じく否定と絶望に
付きまとわれている限りは
この光の交差のような
肯定の炎を放ってみたいものだ
全9連からなるこの長大な詩を、大きく3つのテーマに分けて読み解いていきます。
- 「低劣な10年間」の終焉と、独裁者を生んだ歴史(第1〜3連)
52番街の安酒場で
不安と恐れを抱きながら
俺がひとりで座りこんでいると
低劣でいい加減な10年間が
希望もなしに消え去っていく
詩は、ニューヨークの52番街にあるバーから始まります。
世界中を覆い始めた「死の匂い」を感じながら、オーデンは1930年代という時代を「低劣でいい加減な10年間(a low dishonest decade)」と総括します。
それは、ファシズムの台頭を許容し、経済恐慌から抜け出せないまま戦争へと突き進んでしまった人類の愚かさへの嘆きです。
第2連で言及される「リンツ(Linz)」とは、アドルフ・ヒトラーが幼少期を過ごしたオーストリアの都市です。
ヒトラーという「異様な神(巨大な妄想)」がなぜ生まれたのか。
オーデンは、彼が悪魔として突然変異したのではなく、彼自身が過去に受けた抑圧や、歴史の連鎖(人に対してなされた悪と、それへの復讐)が生み出した怪物であることを冷徹に指摘しています。
続く第3連では、古代ギリシャの歴史家トゥキディデスが引き合いに出されます。
民主主義がいかにして衆愚政治に陥り、独裁者を生み出すか。歴史が同じ過ち(失敗と痛恨)を繰り返している現実への絶望が重くのしかかります。
- 摩天楼の虚無と、日常にすがりつく人々(第4〜7連)
バーに並んだ顔は
平凡な毎日にしがみついている
灯りは消してはならぬ
音楽はいつでもやってなきゃならぬ
何もかもが共謀して
この砦を家具のように
見せかけようとしている
第4連から舞台は再びニューヨークの街と人々に焦点が当たります。
「盲目の摩天楼」は、資本主義と人間の巨大な力を象徴していますが、そこに真の幸福はなく、帝国主義の冷たい顔が覗いています。
バーに集う人々は、海の向こうで世界戦争が始まったという恐ろしい現実から目を背け、「灯り」や「音楽」という偽りの日常にしがみついています。
それはまるで「夜を怖がっている子ども」のようです。
ここでオーデンは、戦争の根本的な原因を、国家間の政治だけでなく「個人の心理(エゴイズム)」にまで掘り下げます(第6連)。
伝説的なバレエダンサーであるニジンスキーと、そのプロデューサーであったディアギレフの愛憎劇を例に出し、人間の骨の髄まで染み付いた罪業とは「普遍的な愛では満足できずに、自分ひとりだけが愛されることを熱望する(Not universal love / But to be loved alone)」ことだと看破します。
他者を排除し、自己中心的な愛を求める心のあり方こそが、国家間の排他的なナショナリズムと同根であるという鋭い洞察です。
そして人々は、その根源的な問いに向き合うことなく、翌朝になれば再び「いつも通りのゲーム(通勤と労働)」へと逃げ込んでいくのです(第7連)。
- 詩人の使命「お互いに愛し合わねばならぬ」(第8〜9連)
もつれた嘘を解くために
俺が持っているのはひとつの声だけだ
(中略)
俺たちはお互いに愛し合わねばならぬのだ
さもなくば死だ
絶望と自己欺瞞に満ちた世界の中で、詩人にできることは何か。
第8連でオーデンは、権力者や国家が振りかざすロマンティックな嘘を解体するための「ひとつの声(a voice)」を持つことだと宣言します。
「この世に国家などというものはない(There is no such thing as the State)」という言葉は、人間を国家の歯車として扱う全体主義への強烈なアンチテーゼです。
そして、この詩で最も有名な一行「俺たちはお互いに愛し合わねばならぬ。さもなくば死だ(We must love one another or die)」へと至ります。"or die" =「さもなくば死だ」という痛烈な響きを、私たちは胸に刻まねばなりません。
俺もエロスと泥から作られており
同じく否定と絶望に
付きまとわれている限りは
この光の交差のような
肯定の炎を放ってみたいものだ
結びの第9連。世界は昏睡状態にあり、無防備なまま夜(暗黒の時代)に包まれています。
しかし、その完全な暗闇の中であっても、正義を信じる人々のメッセージが「点々と光が交差して」輝いています。
詩人自身も、決して高潔な聖人ではなく、迷いや絶望を抱えたただの泥と欲望(エロス)からなる人間に過ぎません。
それでも彼は、その暗闇の中で、人間の尊厳と愛を示す「肯定の炎(an affirming flame)」を放つ存在でありたいと、静かに、しかし力強く誓うのです。
まとめ
『1939年9月1日』は、単に戦争の始まりを嘆く詩ではありません。
ファシズムを生み出す社会の構造、現実逃避する大衆の心理、そして人間の奥底にある利己的な欲望といった「闇」を徹底的に解剖した上で、それでもなお「愛」と「肯定」の可能性を信じようとする、極めて知的でヒューマニスティックな作品です。
不確実で分断された時代を生きる現代の私たちにとっても、オーデンがニューヨークの片隅で灯そうとした「肯定の炎」は、進むべき道を照らす道標として、今もなお力強く燃え続けています。


