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八木重吉の詩「夕焼」の全文とエピソード。

八木重吉は私が最も敬愛する詩人の一人です。二十代の前半に、「八木重吉論」を書いたほど、八木重吉の詩にはのめりこみました。

 

それなのに、私は八木重吉の詩についての感想を、このブログではほとんど書いておりません。

 

その理由は?

 

感想を書く気にもなれないほど、八木重吉の詩は無防備で、信じられないほど純粋で不純物がない。そのため、感想を語るよりも、少しでもその世界に浸っていたい感じるから。

 

ただ、今回は、意外な情報を得たことがあり、どうしても書きたいと思ったのです。

 

まずは、以下の「夕焼」と題する八木重吉の詩をご紹介します。

 

【動画】(朗読と鑑賞)八木重吉「夕焼」

 

夕焼

 

ゆう焼けをあび

手をふり

手をふり

胸にはちさい夢をとぼし

手をにぎりあわせてふりながら

このゆうやけをあびていたいよ

 

 

「夕焼」について動画でもお伝えしました

 

純粋なだけでなく、ここには八木重吉にしか出せない味があります。「重吉節」と呼びたくなる独自の言い回しが、ほぼのぼとした気持ちにしてくれるのですね。

 

この詩をご紹介したのには、理由があります。

 

「夕焼」という詩には、興味深いエピソードがあることをご存知でしょうか。

 

昭和22年のことです。小林秀雄吉野秀雄の自宅を訪れた時、山雅房版の「八木重吉詩集」を開いたところ、「夕焼」が目にとまり、小林秀雄は心を動かされたそうです。

 

小林秀雄は創元社に強くはたらきかけ、創元選書「八木重吉詩集」の出版を後押ししたと伝えられています。

 

吉野秀雄と小林秀雄がいなかったら、これほどまでに八木重吉の詩が知られるようにならなかったかもしれません。

 

言うまでもありませんが、小林秀雄は日本が生んだ最高の批評家。詩人・中原中也と親交があったことは有名です。また、吉野秀雄は、八木重吉の妻であった登美子と結婚した歌人であります。

 

吉野秀雄が小林秀雄に八木重吉の詩を紹介し、感銘を受けた小林秀雄が「八木重吉詩集」の出版を働きかけたとは、良い話ですね。

 

小林秀雄は八木重吉については、文章を遺してはいないと思います。

 

おそらくは、小林秀雄は八木重吉については「書けなかった」のではないでしょうか。

 

批評するには、あまりにも、単純で、純粋すぎた。

 

八木重吉という詩人について、八木重吉の詩の世界について書かれた、最も優れた文章を書いたのは高村光太郎です。

 

「定本 八木重吉詩集」の「序」が、それだと思われますので、一部を引用いたします。

 

 

詩人八木重吉の詩は不朽(ふきゅう)である。このきよい、心のしたたりのような詩はいかなる時代にあっても死なない。(中略)結局八木重吉といふ詩人の天から授かった詩的稟性が、人生の哀しみに洗われ、人生の愛にはぐくまれ、激しい内的葛藤の果てにやつと到ることの出来た彼独特の至妙な徹底境に、一切の中間的念慮を払いのけることが出来たからであろう。

 

 

「一切の中間的な念慮」を払いのけていることこそが、八木重吉の詩の最大の魅力だと言えます。

 

八木重吉の詩は単純ですが、浅くはありません。透明で純粋ですが、軽くはありません。

 

深いけれども、重苦しくない、明るく、澄明な八木重吉の詩は、概念を捨てているという点においても、モーツァルトの音楽と共通する点があると思います。

 

もう一つ、八木重吉の詩に欠かせない魅力は、意外性です。

 

「夕焼」でも、まさかふつうは「手をにぎりあわせてふりながら」という動作はしないけれども、そういう感じはすごくわかる、という表現は、八木重吉の詩にはしばしば出てきます。

 

意外性な表現がいきなり飛び出すのが、八木重吉の詩の特徴です。

 

「母をおもう」という詩の「母をつれて てくてくあるきたくなった」も、意外性充分ですよね。そのことについては、以下の記事で書いてみました。

 

⇒八木重吉の「母をおもう」は、親友が教えてくれた想い出の詩

 

独自のハッとする言い回しは、八木重吉がいかに余計なものを捨てて生きたか、捨てたからこそ大事なものだけが見えた、その証明にほかなりません。

 

八木重吉のその他の有名な詩はこちらへ

新元号「令和(れいわ)」の意味と、そこに込められた願いとは?

本日、平成31年(2019年)4月1日に、新元号が発表されました。

 

平成の次の元号は「令和れいわ)」に決定。

 

今日はあくまで新元号が発表されただけで、元号が平成から令和に改められるのは、2019年5月1日です。

 

この日から、令和元年5月1日となります。

 

では、さっそく、「令和」の典拠を見ながら、そこに込められた意味(願い)を確認してみましょう。 この記事の続きを読む

赤い椿白い椿と落ちにけり(河東碧梧桐)の解釈。

俳句も好きで若い頃からよく読みました。おかげで、過去に知った俳句が、ふと口をついて出てくることがあります。

 

俳句は短歌よりも文字数が少ないこともあり、初めて読む俳句は意味が正確にはとれない場合が多い、という難点もあるのですね。

 

今回は、河東碧梧桐かわひがしへきごとう)の名句「赤い椿白い椿と落ちにけり」を取り上げることにします。

 

【動画】朗読と感想)赤い椿白い椿と落ちにけり(河東碧梧桐の俳句)の謎を解く。

 

最近、日本の教科書問題が浮上することが多いですよね。歴史に関する記述が事実と異なってり、「歪んだ教育」が取り沙汰されます。

 

しかし、あくまで私個人の意見ですが、文学に関する教育は良かったのではないかと感じています。

 

というのは、国語や現国で取り上げられている作品が実に良かったからです。

 

文学作品のセレクションは、大したものだと思います。

 

教科書に載っている作品は、ほとんどが素晴らしいのです。

 

今でも折に触れて思い出す俳句は、多くの場合、教科書に載っていた俳句だったりします。

 

今日ご紹介する河東碧梧桐の「赤い椿白い椿と落ちにけり」も、教科書で学んだ俳句です。

 

河東碧梧桐は1873年(明治6年)に生まれ、 1937年(昭和12年)に死去した日本の俳人。

 

正岡子規の弟子で、高浜虚子とともに「子規門下の双璧」と称されました。

 

子規は、碧梧桐と虚子について「虚子は熱き事火の如し、碧梧桐は冷やかなる事氷の如し」と評したと伝えられています。

 

赤い椿白い椿と落ちにけり

 

で、「赤い椿白い椿と落ちにけり」の句意ですが、あなたはどのように感じ取りましたか?

 

実は、この句の解釈は専門家の中でもいろんな意見に分かれているのです。

 

多数の解釈は大別すると、2つのグループに分かれています。

 

1)すでに地面に落ちてしまっている椿を見て読んだ句である。

2)赤い椿が落ち、次に白い椿が落ちる、その動きを読んだ句である。

 

つまり、静止画として読むか、動画として読むかの違いでしょうね。

 

では、静止画と解釈した意見の代表として高浜虚子の解釈をご紹介しておきます。

 

高浜虚子の解釈

 

「其処に二本の椿の樹がある、一は白椿、一は赤椿といふやうな場合に、その木の下を見ると、一本の木の下には白い椿ばかりが落ちてをり、一本の木の下には赤い椿ばかりが落ちてをる、それが地上にいかにも明白な色彩を画してはつきりと目に映る、いふことを詠つたものであります」

 

次に動画として読んだ説の代表として、栗田靖の解釈を引用しておきます。

 

栗田靖の解釈

 

「赤い椿の花が、と思った瞬間、白い椿がぽとりと落ちた。見ると、一本の木の下には赤い椿ばかりが、また一本の木の下には白い椿が落ちているとの意」

 

さらには、折衷説とでもいうべき、大岡信の解釈も加えておきましょう。

 

大岡信の解釈

 

「語法的には、赤い椿、ついで白い椿が落ちるさまと読めるし、また面白いが、作者自身は、紅白二本の椿の下に散っている赤い花の一群と白い花の一群という、ふたつの色塊の違いに感興を得たらしい」

 

あなたは、どちらの説に共感しましたか?

 

河東碧梧桐に近い正岡子規と高浜虚子が、ともに静止画と評価していること、また本人も落ちた椿の赤い花の一群と白い花の一群に感興を得たと言っているとのことなので、静止画の方が事実なのだと思います。

 

しかし、芸術作品はすべてそうですが、作者の手を離れた直後から、自立するものなので、鑑賞する側は自由に解釈しても良いので、事実にこだわる必要はないでしょう。

 

夢のイメージ

 

その立場に立ち、自由に解釈するとしたら、もう一つ、以下の説が考えられます。

 

実際には河東碧梧桐は発句する時には、落ちてしまっている椿も、今まさに落ちている椿も見ていなかった。すべてフィクション。または夢の中に現れたイメージに、強く心を動かされたので、それを俳句として構築したのではないか。

 

以上のように解釈しても、十分に感動できる俳句だと思います。

 

で、私はどのように読み、どのように感動したのかについて、以下で述べてみます。

 

椿の花が落ちる時の動きにこそ、ハッとするほどの驚きがある

 

私は、赤い椿が落ち、続いて白い椿が落ちたという動画として読みました。

 

昔私が住んでいた町には神社があり、その周辺が野鳥保護区域に指定されているくらい森が大きく広がっていたのです。

 

その森の一角に椿の大きな木が群生していて、椿の花が散る様は、リアルに見てきました。

 

確かに地面に散った椿の花も印象的なのですが、やはり、枝を離れ、落ちる時の動きにこそ、ハッとするほどの魅力がある、というのが私の実感です。

 

それによくよく考えてみると、たくさんの赤い椿と白い椿が地面に散っているという様子をあらわそうとして発句されたとしたら、この「赤い椿と白い椿と落ちにけり」では、表現に無理があると思うようになりました。

 

映画の「椿三十郎」に出てくるような大量の椿の花を連想することは、「赤い椿と白い椿と落ちにけり」では、正直できにくいのです。

 

それよりも、赤い椿が落ちるという動作に驚き、続けて、白い椿が落ちる動きにさらに驚く、という極めて限定されたフレームの動画として見ることの方が、素直な鑑賞の仕方だと思われてなりません。

 

死への想念

 

これは後で、知ったのですが、この「赤い椿と白い椿と落ちにけり」を書いたのは、河東碧梧桐が24歳(明治29年)の時だそうです。

 

この年齢を知って、ドキッとしました。

 

私も24歳の頃は、一心に詩作しており、貧しいながらも最も充実した毎日を送っていたのです。

 

ただ、感性も冴えわたっており、それが極限に達すると、ふと死を想起することがありました。

 

「赤い椿と白い椿と落ちにけり」は、色彩が鮮やかになわけですが、鮮やかに過ぎるのです。

 

首ごとポタっと落ちる椿の花の散り方は、鮮やかであり、潔い。そして潔すぎるがゆえに、残酷なほど美しい。

 

25歳前後の生命の絶頂期にあったら、椿の花の潔く鮮やかに散る様を見たら、死を想わない人はいないのではないでしょうか。

 

生き急ぎ、死に急ぐのが、青春期の特権かもしれません。まるで、椿の花のように。

 

美しい花を咲かせてた椿、そして間もなく、ポタっと地に落ちる椿の鮮やかな花に、生命の絶頂と死を感じ取った詩作品として、私はこれからも「赤い椿白い椿と落ちにけり」を愛し続けたいと思っています。

 

自分らしく生き切って死ぬということ

 

今回は新しい自分なりの解釈について書いてみます。

 

赤い椿は赤い椿らしく生き切った。落ちるということは椿という花にとって死ぬことである。

 

また白い椿も落ちることで、自分は自分らしく、白く生き、白いまま死んだ。それが、白い椿が落ちるという行為の意味である。

 

いかがでしょうか?

 

この最新の解釈は、風花未来の「まどか(円和)」の影響を受けていると思われます。

 

まどか(円和)とは?

 

まどか「円和」とは、自分が自分らしく、人が人らしく生きられる「人の時代」を創造しましょうという運動を象徴的に示した言葉です。

 

河東碧梧桐の「赤い椿白い椿と落ちにけり」は、赤い椿は赤い椿らしく、白い椿は白い椿らしく、くっきりと鮮やかに、真っ白に、真っ赤に、自分の命をまっとうして、生き切った、その素晴らしさを讃嘆した俳句だと素直に感じ取れば、それで充分だと思うのであります。

 

 

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