山本周五郎の短編小説集「おごそかな渇き」の中に収録されている「雨あがる」を興味深く読みました。

 

「おごそかな渇き改版 (新潮文庫) [ 山本周五郎 ]」の中に収められています。

 

懐かしい。山本周五郎は、私の文章修業における師匠でもあります。20代の頃、山本周五郎の小説を耽読しながら、気に入った表現を大学ノートに夢中で書き写していた時代が懐かしい。

 

甘酸っぱく、また塩辛い、文学青年時代が鮮やかによみがえります。

 

さて、今回読んだ「雨あがる」の感想ですが、あまり書くことがありません。

 

山本周五郎という作家が描き出したい人物像、つまり、世の中と折り合いがつかないけれども、自分の信念や価値観を曲げない、純粋な生き方を貫いている人間が、生き生きと書かれていました。

 

「雨あがる」は映画化もされていて、先日、その感想を書いたのです。

 

こうした人物は、山本周五郎にはたくさん出てくるので、珍しくはありません。

 

ただ、その描き方が、素晴らしい。

 

素晴らしいという意味は、いつも新鮮な発見があるということではなく、むしろ、ワンパターン、マンネリ化の美学が味わえること、それが貴いのです。

 

書き方が、描き方に、浮ついたところが微塵もない。地に足がピタリとついて、着実に、淀むことなく、しかも、上滑りすることなく、温かい筆致で描出されています。

 

そういう意味で、文章が素晴らしいのです。

 

人物造形がうまいだとか、比喩が巧みだとか、そういうこともあります。

 

ただ、それよりも何よりも、山本周五郎の美意識(人生哲学)とぴったり重なる人物像が、山本周五郎自身が呼吸するように、自分の歩幅で歩行するように、ごく自然に描き出されていることに驚嘆せざるをえません。

 

生きることと文章道とが同一になるまで、山本周五郎は小説道を極めた。それが、じんわりと、そして強烈に、こちらに伝わってくる、それが嬉しいと素直に感じました。

 

大いなるワンパターン、気高いマンネリズムにこそ、山本周五郎文学の醍醐味があると、あえて主張したいのです。