折笠美秋の俳句「ひかり野へ君なら蝶に乗れるだろう」

折笠 美秋(おりがさ びしゅう)の俳句をご紹介。

 

折笠美秋は、1934年〈昭和9年〉12月23日に生まれ、1990年〈平成2年〉3月17日に死去した。俳人、新聞記者。享年55歳。

 

1982年、筋萎縮性側索硬化症(ALS)を発症。全身不随となる。当時の状況を「自発呼吸ゼロ、全身不随。目および口は動かせるが、声は出せない」と自ら綴った。かずかに動く口と目だけから、夫人に言葉を読み取ってもらい句作を続けたという。約8年の闘病後、亡くなった。

 

では、折笠美秋の俳句を引用してみよう。

 

微笑が妻の慟哭 雪しんしん

 

参院議員(2024年現在)の船後靖彦氏もASLを患い、多くの短歌を散りばめた自伝を出版している。

 

船後靖彦氏の著書「しあわせの王様 全身麻痺のALSを生きる舩後靖彦の挑戦」は読了済み。

 

船後靖彦氏も妻の愛に支えられ短歌を創作し、妻を歌った作品が特に優れていると感じた。

 

折笠美秋(故人の文化人のため敬称略)も、同じASL患者であり、献身的な妻の愛によって発句を続けることができたとのこと。

 

妻に支えられて創作活動と言えば、すぐに想起するのが、星野富弘氏である。

 

星野富弘の詩

 

合い方が病気になって離婚というケースはよく聞くが、相手が難病になったり、重度障碍者になっても、添い遂げる実例は報告されている。

 

折笠美秋の俳句が絶望的で真っ暗になっていない、光明が感じられるのは、妻の愛があったればこそだろう。

 

最初に述べておかなければいけないのは、船後靖彦氏と星野富弘氏は短歌の専門家でも、詩の専門家ではないが、折笠美秋は難病になる前も俳人であったし、難病になった後も死ぬまで俳句を作り続けた、俳句の専門家であるということだ。

 

「微笑が妻の慟哭 雪しんしん」の鑑賞に戻ろう。

 

深い哀しみを堪え、微笑んでくれる妻は美しいが、当時に残酷な運命が二重映しになり、「雪しんしん」に美しさと哀しみ、そして残酷な運命が象徴されている。

 

折笠美秋の代表作と評すべき佳作だろう。

 

ひかり野へ君なら蝶に乗れるだろう

 

折笠美秋の俳句の中から1句だけを選ぶとしたら、私はこの「ひかり野へ君なら蝶に乗れるだろう」を選ぶ。

 

「蝶になれる」ではなく「蝶に乗れる」としたのは、なぜだろうか?

 

結論から言えば、「君」は折笠の妻だが「蝶」は「君」、即ち折笠の妻ではないということだ。

 

では「蝶」は、誰か、何ものなのか?

 

折笠美秋は自分と運命をともにしている妻のことを想う。折笠は暗澹たる人生を生きているが、清らかな魂を持った妻ならば、本来は光のただ中に出てゆき、ひらひらと舞う可憐な蝶の上にも乗ってきらきら輝く天使のように生きられるはずだ。

 

そういう想いを、折笠はこの「ひかり野へ君なら蝶に乗れるだろう」に込めたと、私は想像する。

 

ただ、その蝶がモンシロチョウのような現実の蝶かというと、それは違う気がする。

 

俳句が現実を離れ、幻想的な美にまで昇華しているので、折笠美秋は、ただ死を想うだけでなく、現世ではなく、あの世と、極楽浄土と交信しているのではないかと直感してしまう。

 

だとすると、蝶は何かの化身だと考えても、無理筋ではない。

 

なぜなら、中原中也の最高傑作「一つのメルヘン」の幻想的な美と酷似しているからだ。

 

中原中也は「一つのメルヘン」を亡くなる前年に書いている。「一つのメルヘン」は1936年の作。1937に中原中也は死去している。

 

「一つのメルヘン」を書いた時、中也の魂はすでに昇天していて、あの世から、この世を見て、美しい幻想的な光景を見ていたのではなかったか。

 

中也の見たメルヘンの幻想風景の中に現れる蝶は、死んでしまった中也の魂の化身だと考えても何ら不自然なところはない。

 

中原中也の死「一つのメルヘン」

 

「ひかり野へ君なら蝶に乗れるだろう」が雑誌「俳句研究」に掲出されたのは、1986年、第二句集「君が蝶に」が出版されたのは1987年であり、1990年に折笠は死んでいる。

 

折笠の場合、中原中也と違って(中原は1937年10月に結核性脳膜炎を発症し、その月に亡くなった)1982年に筋萎縮性側索硬化症(ALS)を発症してから8年もの間、闘病生活をしており、死は常に身近にあったはずである。

 

その意味では「ひかり野」は、ただ単に「光のあふれる場所」を意味するのではなく、死後の世界、あの世、天国、極楽浄土、黄泉の国といった現生ではないところのことを指していると想像しても、当然である。

 

また「蝶」は極楽、天国の使者、あるいは死んでしまった折笠美秋の魂の化身であり、妻が天国の使者(魂の化身)の「蝶」に乗って戯れることができる天使、愛と美の化身である、と折笠は比喩表現した、と必然的に推測できるのだ。

 

折笠美秋のそ他の俳句を、以下、引用しておく。

 

百合咲く頃逢いたる君よ いまも百合の香

 

割れやすきもののの音充ち銀河系

 

六方より瑠璃光わが身すきとほらん

 

疾走や かつて天馬のみずすまし

 

大満月つぎが最後の呼吸(いき)かもしれぬ

 

なお翔ぶは凍てぬため愛告げんため

 

棺 のうち吹雪いているのかもしれぬ

 

いちにちの橋がゆつくり墜ちてゆく

 

目覚めがちなる墓 碑あり我れに眠れという

 

七生七たび君を娶らん吹雪くとも

 

逢わざれば逢いおるごとし冬の雨

 

覚悟とは甘えのことぞ冬残照

 

俳句 思う以外は死者かわれすでに

 

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山崎方代の短歌

山崎方代(やまざき ほうだい)の短歌をご紹介。

 

こんなにも湯呑茶碗はあたたかくしどろもどろに吾はおるなり

 

おかたみの二枚屏風も質流れは音なかりけり

 

欄外の人物として生きてきた 夏は酢蛸を召し上がれ

 

あさなさな廻って行くとぜんまいは五月の空をおし上げている

 

残りゐる0.1の視力もてわが庭を眺む六年恋ひにしと

 

砲破片の無数に入れる脚をもてわが庭芝を踏みつづくなり

 

おそろしきこの夜の山崎方代を鏡の奥につき落とすべし

 

手のひらに豆腐をのせていそいそといつもの角を曲りて帰る

 

寂しくてひとり笑えば卓袱台の上の茶碗が笑い出したり

 

ふるさとの右左口郷は骨壺の底にゆられてわがかえる村

 

一度だけ本当の恋がありまして南天の実が知っております

 

私は死んでしまえばわたくしの心の父はどうなるのだろう

 

手の平をかるくにぎってこつこつと石の心をたしかめにけり

 

一粒の卵のような一日をわがふところに温めている

 

柚子の実がさんらんと地を打って落つただそれだけのことなのよ

 

ゆえしらぬ涙は下る朝の日が茶碗の中のめしを照せる

 

明日のことは明日にまかそう己よりおそろしきものこの世にはなし

 

生れは甲州鶯(おう)宿(しゆく)峠(とうげ)に立っているなんじゃもんじゃの股からですよ

 

ふるさとの右(う)左(ば)口(ぐち)郷(むら)は骨壺の底にゆられてわがかえる村

 

卓(ちや)袱(ぶ)台(だい)の上の土瓶に心中をうちあけてより楽になりたり

 

寂しくてひとり笑えば卓(ちや)袱(ぶ)台(だい)の上の茶(ちや)碗(わん)が笑い出したり

 

あかあかとほほけてならぶきつね花死んでしまえばそれっきりだよ

 

ある朝の出来事でしたころぎがわが欠け茶碗とびこえゆけり

 

このようになまけていても人生にもっとも近く詩を書いている

 

夕日の中をへんな男が歩いていった俗名山崎方代である

 

地上に夜が降りくればどうしても酒は飲まずにいられなくなる

 

死ぬ程のかなしいこともほがらかに二日一夜で忘れてしまう

 

山崎 方代(やまざき ほうだい)は、1914年(大正3年)11月1日に生まれ、1985年(昭和60年)8月19日)に死去した、日本の歌人。

 

人間臭い。

 

山頭火とか、尾崎放哉とか、無頼派的な歌人、俳人の短歌や俳句は好きで読んできてはいる。

 

しかし、私自身は、無頼派ではない。

 

臆病で、真面目一辺倒に近い生き方をしてきてしまった。

 

だから、人間臭くないかもしれない。

 

だから、私は魅力が薄いかもしれない。

 

山崎方代の短歌を読んで、このように感じる人は、私だけではないだろう。

 

一方、山崎方代の短歌は人間臭い。

 

ずうずうしいくらい、あっぱれなほど、自分を愛している。

 

自己愛の名人のような人だな、この人は、山崎方代という歌人は……。

 

人間臭く生きるとは、何と難しいことか。

 

普通人が心得なければいけないことは、無理をしてはいけないこと、無頼を気取ったところで、自分らしくなければ続かない。

 

大事なことは、本来の自分になることなのだが、やはり、これも難しい。

 

それにしても、人間臭い短歌は、真面目なワタシを解放してくれる力があることは、間違いなさそうである。

 

誠実に生きようとして人間臭さが薄まってしまった、かなり人として寂しいと自分で感じた時、山崎方代の短歌を読むと良いかもしれない。

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田中克己の短歌「この道を泣きつつ我の行きしこと 我がわすれなばたれか知るらむ」

今回は田中克己(たなかかつみ)の短歌をご紹介。

 

「詩集西康省」の序の歌

 

この道を泣きつつ我の行きしこと

我がわすれなばたれか知るらむ

 

この短歌は予備知識は一切必要ない。

 

私自身、大学生時代に読んで、「良い歌だなあ」と感じ、何十年も経ったにもかかわらず、忘れないでいた。

 

そして、今回、再読して、やはり「良い歌だなあ」と感じた。それだけで充分ではないだろうか。

 

解説の尾ひれはひれは要るまい。

 

ただ、今回は記事にするにあたって、少しだけ田中克己について調べたので、参考までに最小限のデータを記しておく。

 

田中克己、1911年(明治44年)8月31日に生まれ、1992年(平成4年)1月15日)に死去。日本の詩人・東洋史学者。

 

今回ご紹介した「この道を泣きつつ我の行きしこと 我がわすれなばたれか知るらむ」は、田中克己が高校三年生の時に書いた短歌である。

 

私が大学生の時に初めて読んで「これは青春の愛唱歌だろう」と直感したのだが、やはり田中克己は高校生に詠んでいたのだった。

 

石川啄木や若山牧水にも通じるセンチメンタリズムが、この歌には脈打っている。

 

というか、啄木や牧水とは関係なく、自我に目覚め、挫折した経験を持つ者ならば、誰でも共感できる、親和性(親しみやすさ)が、長きに渡り愛唱されてきた所以であろう。

 

田中克己は自身の第一詩集である「詩集西康省」の序に「この道を泣きつつ我の行きしこと 我がわすれなばたれか知るらむ」を記載した。

 

「詩集西康省」が発表されたのは、1938年(昭和13年10月1日)である。

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