今日は2025年11月24日、今日からドストエフスキーの「白痴」を、改めて読み込んで行こうと思う。
どうしてか?
それには、明確な目的がある。
風花未来の新作小説「シーガル(仮題)」を書き始めるための準備運動だ。
あの名作中の名作「白痴」を準備運動に使うとは何事か、と叱られそうだが、じつは「準備運動」と断言するには、明確な理由がある。
「白痴」を読むにあたって、ドストエフスキーの影響を全く受けないで、この小説の魅力をすべて引き出すためだ。
日本人で、ドストエフスキーの「白痴」を読んで、ドストエフスキーから影響を受けなかった文学者はいないのではないだろうか。
影響どころか、打ちのめされ、ひれ伏し、支配され、洗脳され、作家としての自立性を奪われ、木偶人形(でくにんぎょう)のようにされてしまうのだ。
だから、ドストエフスキーの影響を受け過ぎた作家は、ロクな小説を書けていない。
つまり、ドストエフスキーの影響を被爆してしまったら、自分自身でドストエフスキーを超える自分らしい小説は書けないのである。
したがって、今日から始める「白痴」の読み解きは、火のように冷たく、氷のように熱く自分の魂を最後まで持続することが求められる。
防護服を着てドストエフスキーの世界に踏み込むつもりはないが、真っ裸で飛び込んでも、私、風花未来は、ドストエフスキーから無傷で、この「白痴」の世界から、この世に生還したいのだ。
「白痴」との距離の取り方は、この読み解きに生命線となる。思いきり近づいたり、思いきり突き放したり、この前後の動きをひんぱんに行わないと、ドストエフスキーのワナにはまってしまう。
最高の敬意をはらいつつ超真剣に、一方で小馬鹿にしながら道化て、全体としては、面白おかしく、魂を震わせながら、存分に楽しみたい。
そうしないと、私自身が、面白い新作小説は書けない。
なぜなら、面白くなければ小説じゃない、からだ。
ともあれ、この「白痴」の読み込みは、奇跡の読書になるのは間違いないだろう。
使用するテキストは、新潮文庫に決定。
上下巻に分かれているが、まずは上巻から


