パンくずリスト
  • ホーム
  • 坂村真民

カテゴリー:坂村真民

記事一覧
ホームPage 1 / 11

坂村真民の詩「鳥は飛ばねばならぬ 人は生きねばならぬ」

美しい詩 - 坂村真民

坂村真民の「鳥は飛ばねばならぬ 人は生きねばならぬ」という詩をご紹介。

 

鳥は飛ばねばならぬ 人は生きねばならぬ

 

鳥は飛ばねばならぬ

人は生きねばならぬ

怒濤(どとう)の海を 飛びゆく 鳥のように

混沌の世を 生きねばならぬ

鳥は本能的に 暗黒を突破すれば

光明の島に着くのを知っている

そのように人も 一寸先は闇ではなく

光であることを 知らねばならぬ

新しい年を迎えた日の朝

わたしに与えられた命題

鳥は飛ばねばならぬ

人は生きねばならぬ

 

一寸先は闇ではなく 光であることを 知らねばならぬ」は秀逸ですね。

 

坂村真民には求道的な詩が多いのですが、この詩は特にその傾向が強い。

 

仏教と農業と家族愛、このトライアングルが、坂村真民の詩を形成しているといっても過言ではないでしょう。

 

そして、坂村真民の詩のテーマは、人間愛と人生肯定です。

 

現代詩は不幸にも、人生観が希薄な思わせぶりの概念に出してしまったと私が断定しても、否定する人さえいないほど、日本人は現代詩なるものと無関係になっている気がしています。

 

それでいいのです。現代詩は無視し、本当に生きた言葉で書かれた詩だけを愛すること、この選択肢しか私たちには残されていません。

 

当ブログで坂村真民の以下の詩を取り上げております。

 

坂村真民の詩「七字のうた」

 

坂村真民の詩「あ」

 

坂村真民の詩「七字のうた」全文とレビュー

美しい詩 - 坂村真民

坂村真民(さかむらしんみん。1909年1月6日 - 2006年12月11日))という詩人をご存知でしょうか。風花塾に参加されている方から紹介されて知りました。

 

私は「言葉の底力」という言葉をしばしば使っています。

 

坂村真民さんの詩には、まさに「言葉の底力」を感じました。

 

一つだけ、作品をご紹介しましょう。「七字のうた」というタイトルの詩です。

 

【動画】(朗読)坂村真民「七字のうた」

 

 

七字のうた

 

よわねをはくな くよくよするな なきごというな うしろをむくな

ひとつをねがい ひとつをしとげ はなをさかせよ よいみをむすべ

すずめはすずめ やなぎはやなぎ まつにまつかぜ ばらにばらのか

 

 

坂村真民の「七字のうた」の音声動画による解説はこちら

 

坂村真民の詩「七字のうた」の朗読はこちらに

 

坂村真民さんは、2006年に亡くなっています。良い詩を書く人は、ほとんど例外なく、現代詩という分類からはずれています。坂村さんも、また、そうでした。

 

言葉による表現力と一口に言いますが、さまざまなスタイルがあります。谷崎潤一郎のような巧みな比喩を駆使した豪華絢爛たる文体がある一方で、ぜい肉を極限までそぎおとしたようなシンプルな文体もあるのですね。

 

坂村真民さんの詩学は、後者に属します。装飾語はまったく使われいませんが、イメージは実に豊かです。

 

技巧を意識すると、どうしても、詩が人工的になり、「生きること」の本質から離れてしまう……そのことを、坂村さんは怖れたのではないでしょうか。

 

というか、そうした邪まな欲はきれいさっぱり捨ててしまった人でなければ書けない、生の原形としての言葉がこの詩集には輝いています。

 

日本語で書かれた貴重な「美しい言葉」として、永遠に語り継がれてほしいものです。

 

アマゾンでこの「念ずれば花ひらく」を探しました、レビューが1つもついていないことがないようにと祈りつつ。

 

レビューは7つ付いていました。すべてが、最高評価でした。やはり、本物は本物として認められるのですね。

坂村真民の詩「あ」の感想

美しい詩 - 坂村真民

以前にアップしたました「坂村真民の詩『七字のうた』」という記事へのアクセスの多さに驚いています。坂村真民(1909年1月6日 - 2006年12月11日))という詩人への関心は、意外にもかなり強いのですね。

 

私が持っている坂村真民の詩集は2冊です。前回ご紹介した「念ずれば花ひらく」と今回取り上げます「二度とない人生だから」。

 

この「二度とない人生だから」を読み進んでゆきますと、書かれた言葉はすべてが坂村真民の言葉であり、それは決して借り物ではなく、頭でこねくり回して出てきた言葉でもなく、坂村さんの生き様のあるがままの反映だと感じます。

 

ただ、多くの詩集がそうであるのと同様に、詩としては必ずしも成功していない詩篇も存することは否めません。

 

坂村真民は仏教徒でした。その影響が詩篇に滲み出ているので、信仰を持たない私には少し違和感を覚える部分があります。

 

八木重吉はキリスト教徒でした。八木の場合も、詩編に信仰は反映されています。若い時には八木重吉の詩集を愛読していたにもかかわらず、そうした宗教色が、気にかかったものでした。

 

私は宗教に無縁です。そういう世界から意識的に距離をおいてきたとも言えます。ただ、最近になって思うのは、信仰を持たなければ、自由さを享受できますが、その分、心細さも覚えるということ。

 

今さら、何らかの宗教を信仰しようとは思いませんが、この人生において信じるものは持っていないと、不安でたまりません。

 

ですから、思想というと大げさかもしれませんが、軸というか、指針というか、そういうものは立てておくべきだと痛感しています。

 

そうした軸がブレますと、自分の足取りに自信が持てなくなり、世界観が暗くなってしまうでしょう。

 

坂村真民と、「行為の意味」の詩人・宮澤章二との共通項は、倫理的であることです。

 

「生きてゆく上での信条を明らかにしている」、その1点において、2人の詩人は響き合っています。

 

さて、今日ご紹介する詩は、そうした人生観的な詩ではなく、宗教とか思想などとは関係なく、詩として珠玉の出来栄えを示している佳作です。

 

「あ」という、たった一文字のタイトルの詩。

 

 

 

一途に咲いた花たちが

大地に落ちたとき

“あ”とこえをたてる

あれをききとめるのだ

つゆくさのつゆが

朝日をうけたとき

“あ”とこえをあげる

あれをうけとめるのだ

 

詩人の定義にはいろいろありますが、一つには「発見力」があります。俗世の「うねり」に身をまかせていますと、大切なものが見えなくなり、本来は最も愛していたものさえも失ってしまうこともあります。

 

ところが、詩人は、そうした忘れかけていた大事なものを、再発見して目の前に示してくれるのです。

 

上の詩も、こういう表現はなかなかできませんが、作者と同じように感じることは誰でもできますよね。

 

『あ』という詩が示してくれている、「初々しい、おののき」の感覚を大切にしてゆきたいものです。

 

それと、優れた詩が私たちに求めるのは「澄ますこと」です。耳を澄ます、眼を澄ます、そして、心を澄ます。

 

澄まさねば、真実はその正体を私たちに明かしてはくれません。

 

そのことも、名作詩は教えてくれているようです。

ホームPage 1 / 11