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ドストエフスキーの「白痴」の主人公である、ムイシュキン公爵の語りの中から、特に魅力的な名言ともいえる箇所をピックアップしてみました。
「ご存知ですか、一本の木の前を通り過ぎながら、それを見られることを幸せに思わないなんて、どうしてそんなことができるのか、私にはわからないのです。
人と話しをしながら、その人を愛せることを幸せに思わないなんて!
ああ、私はただ、それをうまく言葉にできないだけなのです。
――でも、私たちの行く先々には、たとえどんなに絶望しきった人間であっても、美しいと思わずにはいられないものが、どれほどたくさんあることでしょう。
子どもを見てください、神様が創られた夜明けを見てください、草がどのように育っていくかを見てください。
あなたを見つめ、あなたを愛している瞳を見てください……。
なぜ私がこんなことを言うのか、おわかりにならないでしょうが、私はただ、自分が本当に幸せな人間だからお話ししているのです。
私は時々、こんなふうに考えます。なぜ人は、自分に向けられた人々の愛情に気づかないのだろう、と。
もし私たちが、互いにもっと心を開き、互いを理解しようと努めたなら、この世はどれほど素晴らしい場所になることでしょう。
私は決して、皆さんを非難しているわけではありません。
ただ、私たちはあまりにも多くの喜びを見落としているのだと、そう言いたいだけなのです」
~エパンチン家での公爵の長い独白(第4部 第7章)
テーマ別:ムイシュキン公爵の言葉
【子どもと魂の救済】
ムイシュキンがスイスで療養していた頃の、子どもたちとの関わりについて語る場面です。彼の純粋さが最も現れています。(第1部 第6章)
「子どものそばにいると、魂が癒されるのです。
私はあのスイスの村で、子どもたちと一緒にいる時だけが、本当に心安らぐ時間でした。
大人の前では、私はいつも自分がひどく不器用で、愚かな人間に思えてしまう。
でも、子どもの前ではそんなことはありません。
子どもはすべてを見抜き、そして、すべてを受け入れてくれるからです。」
【生と死】
死刑囚が処刑される直前の「最後の5分間」について語る、非常に鋭く重い独白です。生と死の境界線に立つ人間の心理を描き出しています。(第1部 第2章)
「しかし、一番強烈で、一番耐えがたい苦痛は、傷の肉体的な痛みなどではなく、あと一時間、あと十分、あと半分、そして今この瞬間、魂が肉体から飛び去って、自分がもはや人間ではなくなるのだという、その『確実さ』にあるのかもしれません。
それも、絶対に避けられないという確実さです。
ギロチンの刃が滑り落ちてくる、その頭の真上にある四分の一秒こそが、この世で最も恐ろしい瞬間なのです。」
【永久調和と生の喜び】
ムイシュキンが持病(てんかん)の発作が起きる直前に感じる、圧倒的な「生の充実感」についての回想です。病という苦しみの先に見出す、光のような言葉です。(第2部 第5章)
「その瞬間には、途方もない光のようなものが脳全体を照らし出すのだ。生命の感覚、自己意識が十倍にも跳ね上がる。
……この異常な緊張がもたらす一瞬は、至高の調和と美に満ちている。
それは祈りであり、完全なる心の平穏であり、あふれるほどの喜びなのだ。
もしこの一瞬のためなら、生涯の何年を、いや、生涯そのものを差し出しても惜しくはない。
あの瞬間、『もはや時は存在しない』という言葉の本当の意味が、私にははっきりと理解できるのです。」
【美と哀しみ】
ヒロインであるナスターシャの肖像画を初めて見たときの、公爵の言葉です。彼は「美しさ」の背後にある「苦悩」を見抜きます。(第1部 第3章)
「すばらしい顔です!……でも、この顔にはずいぶん苦悩の跡が見えます。
この人は、計り知れないほどの苦しみの中で生きてきたのだと思います。
誇り高く、そして、底知れぬ絶望を抱えている。美しさとは、謎なのです。」
- すべての命への愛と、世界の光への目覚め
スイスの療養所へ向かう道中、深い絶望と意識の濁りのなかにあった公爵が、市場で一頭の「ロバ」のいななきを聞いた瞬間に、世界への圧倒的な肯定と愛に目覚める有名な場面です。(第一部 第六章・エパンチン家にて)
「スイスに着いたばかりのころ、私は本当にひどい状態でした。
言葉も満足に話せず、自分が何を求めているのかさえわからなかったのです。
いつも心が重く沈んでいて、一番つらかったのは、自分にとってすべてが『よそよそしい』と感じられることでした。
私は暗闇の中に放り出されてしまったのだと、そう思っていました。
ところが、ある町(バーゼル)の市場に差し掛かったときのことです。
一頭のロバが、けたたましい声で鳴くのを聞きました。ロバですよ。私はその声を聞いた瞬間、なぜかその動物がとてつもなく好きになってしまったんです。そして同時に、私の頭の中で何かがぱっと開けたような気がしました。
そのロバを通して、私はふいに、スイスという世界全体を好きになったのです。
その日以来、私の心からあの暗い悲しみは完全に消え去りました。
私はロバを見るたびに、言葉にできないほどの愛着を感じるのです。ロバは、どんなに虐げられても、健気に働き、役に立つ、不思議なほど善良な生き物です。
私は皆さんに笑われるかもしれませんが、あの時、一頭のロバのおかげで、私の心は世界と再び結びつくことができたのです。
自然を眺めていると……たとえば、滝が山から落ちてくるのを見ていると、その水は細い白い糸のように見えますが、実は恐ろしいほどの水量で、絶え間なく音を立てて落ちている。
あの音を聞きながら、いつまでも、いつまでも眺めているのが好きでした。
そうしていると、ふと、この広大な世界、永遠に続く空、そしてすべての命が、ひとつの大きな交響曲を奏でているような気がしてくるのです。
ただ私一人だけが、そのお祭りの輪から外れている。
でも、そのことすら、悲しいとは思わなくなりました。すべての命が愛おしくてたまらないのです。」
- 深い哀れみと、魂の尊厳(虐げられた娘マリーへの愛)
スイスの村で、村中から石を投げられ、蔑まれていた結核の娘マリー。彼女に対する公爵の、恋愛感情を超えた「絶対的な慈悲と共感」の吐露です。(第一部 第六章)
「マリーはひどい病気で、やせ細って、いつもボロボロの服を着ていました。誰もが彼女を罪深い女だと罵り、唾を吐きかけました。
子どもたちでさえ、大人たちの真似をして、彼女に泥を投げつけていたのです。彼女自身も、自分は世界で一番汚れた、誰からも愛される資格のない人間だと思い込んでいました。
私は彼女を愛していたわけではありません。恋をしていたのではありません。ただ、どうしようもなく可哀想だったのです。
彼女があまりにも残酷な目に遭い、その苦しみをすべて自分自身の罪として引き受けてしまっていることが、私の胸を張り裂けそうにさせました。
ある日、私は彼女に近づき、その手にキスをしました。彼女は驚いて縮み上がりました。まるで、信じられないものを見たかのように。
私は彼女に言いました。『あなたは何も悪くない。あなたは苦しんでいるだけだ。私はあなたを軽蔑などしていない、心から尊敬しているんだ』と。
私は子どもたちにも話しました。『あんなに苦しんでいる人を、どうして苛めることができるんだい? 彼女の顔を見てごらん、どれほど深い悲しみを抱えているか』と。
やがて、子どもたちの心は変わり、彼女を天使のように愛し始めました。
彼女の最期の数ヶ月間、子どもたちは彼女の窓辺に花を飾り、歌を歌い、彼女が少しでも安らかに息を引き取れるようにと、毎日駆けつけたのです。
彼女は、自分がこれほどまでに愛され、赦されているのだと知って、静かに、本当に幸せそうに亡くなりました。
私は、人間の魂というものが、少しの愛情と哀れみによって、どれほど美しく回復するものかを見たのです。」
- 他者の苦痛を我がこととして引き受ける感受性
物語のヒロインであり、幼い頃に深く傷つけられ、自分自身を「汚れた女」として破滅させようとしている絶世の美女・ナスターシャに対して、公爵がその奥底にある「激しい苦痛」に触れて語る言葉です。(第一部 第十六章)
「あなたの顔を初めて写真で見たときから……いや、それよりずっと前から、私はまるでどこかであなたを知っていたような気がするのです。
あなたのその眼差しの中にあるものを、私はずっと前から知っていたような……。
私は、あなたが今、どれほどの絶望の淵に立っているかを感じています。
あなたは、自分自身を軽蔑し、世界を憎み、そして何よりも自分を傷つけることで、誰かに復讐しようとしている。
でも、そんなことをしても何にもならない。あなたは、私がこれまでの人生で出会った誰よりも、純粋で、誇り高く、そして誰よりも深く傷ついている人だ。
私は……私はあなたを哀れんでいるのです。愛しているのではないかもしれない。でも、この哀れみは、どんな愛よりも強い。あなたのその痛みが、まるで私自身の心に突き刺さっているように感じるのです。
私は、あなたのためなら何でもします。
あなたがもし望むなら、私は今すぐ、この場であなたの前にひざまずき、あなたのすべての苦しみを私が背負いましょう。
お願いです、もうこれ以上、ご自分を壊さないでください。」
- 美への希求と、人間の純粋さへの無条件の信頼
美しい三女アグラーヤの顔を見つめながら、美というものの神秘と、彼女の中にある「光」をまっすぐに肯定する場面です。(第一部 第七章)
「あなたは信じられないほど美しい。あなたがこちらを見つめると、まるで光が差し込んできたように感じます。
美しさを見極めるというのは、本当に難しいことです。美とは謎です。けれど、あなたの美しさは、ただの造形ではありません。
私は、あなたの顔を見ていると、人間が本来持っているはずの、底抜けの純粋さや、魂の明るさを信じずにはいられなくなるのです。
世の中には嘘やごまかしがたくさんありますが、あなたの前では、そんなものはすべて消え去ってしまう。
もし人間が、互いの中にこうした美しさや純粋さを見出すことができたなら、人は誰も傷つけ合うことなく、ただ喜びの中で生きていけるはずなのに、と。
私には、あなたのその美しさが、まるで人間が向かうべき希望そのもののように思えるのです。」
ムイシュキン公爵の言葉は、傷ついた魂や、世界から疎外された存在、そして目に見えない「美しさ」への、祈りのような肯定に満ちています。
「世界を救うのは美である(美が世界を救う)」――。
素晴らしい言葉です。文学史上に輝く最も有名な言葉の一つであり、今もなお多くの人々の魂を震わせ続けています。
さて、この名言がどこで、どのように語られるのか。
実は、ここにはドストエフスキーが仕掛けた、非常に美しく、そして劇的な「秘密(謎)」があります。
それは、この小説の中で、ムイシュキン公爵自身の口から直接この言葉が語られる場面は「ただの一度も存在しない」ということです。
この圧倒的な名言は、公爵自身の言葉としてではなく、かつて公爵がそう語ったのを聞いた「他者の口を通して」、作中で【二箇所】だけ登場します。
公爵がいつ、誰に、どんな状況でこの言葉を語ったのかは、読者の想像に委ねられています。この間接的な提示こそが、かえってこの言葉にミステリアスで絶対的な響きを与えているのです。
具体的に、その二つの場面を前後の流れとともに詳しくご紹介します。
- 死の淵にある青年イッポリートの叫び(第3部 第5章)
最も有名なのがこの場面です。
イッポリートという18歳の青年が登場します。彼は重い結核(不治の病)を患い、余命がわずか数週間であることを宣告されています。
彼は、自分の命を理不尽に奪っていく「自然の力」や「神」に対して激しい怒りと絶望を抱き、狂気すれすれの反抗心を持っています。
ある夜、イッポリートは公爵の滞在する別荘に人々を集め、自分の遺書ともいえる長大な「私の弁明」を読み上げようとします。
その直前、熱を帯びた瞳で、苦しみと嘲りをないまぜにしながら、突然公爵に向かってこう叫ぶのです。
イッポリート「本当ですか、公爵。あなたがいつか『世界を救うのは美だ』と言ったというのは? ――皆さん!」と、彼は皆に聞こえるように大声で叫んだ。
「皆さん、公爵は、世界を救うのは美だと主張しているんですよ! 僕に言わせれば、彼がこんなどこかふざけたような考えを抱いているのは、彼が今、恋をしているからに過ぎないんです。(中略)
ねぇ、公爵、いったいどんな『美』が世界を救うというんですか? コールリャ(※別の少年)が、あなたがそう言ったと僕に教えてくれました。
あなたは熱心なキリスト教徒なんですか?
コールリャによれば、あなたは自分のことをキリスト教徒だと言っているそうですが」
公爵は、彼を注意深く見つめたまま、何も答えなかった。
ここで重要なのは、死の恐怖に悶え苦しむ青年から「どんな美が世界を救うというのか!」と激しく詰め寄られたとき、公爵は一切の反論も、美しい演説もしないということです。
ただ、限りない哀れみと深い愛情を込めて、死にゆく青年を「じっと見つめる」のです。
言葉で「美」を説明するのではなく、他者の苦痛を自分のものとして受け止めるその「まなざし」と「沈黙」そのものが、公爵の体現する「美」の答えになっていました。
- 公爵を愛するアグラーヤの警告(第4部 第6章)
もう一箇所は、公爵を深く愛しながらも、彼のあまりの純粋さや世間知らずなところが心配でたまらない、誇り高き美しい令嬢アグラーヤの言葉として登場します。
上流階級の名士たちが集まる夜会(エパンチン家での集まり)を前に、アグラーヤは公爵が世間の嘲笑の的になるのではないかと、極度の緊張と苛立ちを募らせています。
そして、公爵に向かって、人前で絶対に非常識な振る舞いをしないようにと釘を刺す場面です。
アグラーヤ「いいですか、一度だけ言っておきます」と、アグラーヤはついにこらえきれなくなったように言った。
「もしあなたが、死刑のことや、ロシアの経済状態のことや、あるいは『世界を救うのは美だ』なんてことを話し出したら……私はもちろん、表面上は喜んで、大いに笑ってみせますわ。
でも……あらかじめ警告しておきますからね、二度と私の目の前に現れないでください!
聞こえましたか、私は本気で言っているんです! 今度という今度は、本当に本気なんですからね!」
アグラーヤは「世界を救うのは美だ」という公爵の思想を、頭から馬鹿にしているわけではありません。
むしろ、誰よりもその言葉の神聖さを直感しているからこそ、俗物的な貴族たちの前でその言葉を汚されたくない、公爵を傷つけたくないという、彼女なりの不器用な愛と防衛本能からの「警告」でした。
(そして、この直後に公爵は感極まって、先にお伝えした「一本の木を見て、美しいと思わないなんて……」というあの長い独白を行い、高価な壺を割ってしまうのです)。
ムイシュキンにとっての「美」とは何か
「美は謎です」と公爵が語ったように、ドストエフスキーが公爵に託した「美」とは、絵画や彫刻のような表面的な形のことではありませんでした。
それは、虐げられたマリーの手を握った慈悲であり、傷ついたナスターシャの苦しみを共に背負おうとする自己犠牲であり、死にゆくイッポリートの叫びを静かに受け止める沈黙です。
人間の弱さ、哀しみ、そして病や苦痛のただなかにあっても、決して失われることのない「魂の光」。
それこそが世界を救済する「美」であると、ドストエフスキーは信じていたのだと思います。
「世界を救うのは美である」という言葉が心に留まるのは、生と死の境界線を見つめ、人間の本当の哀しみを知る魂にこそ、この言葉の本当の重さと温かさが響き渡るのではないでしょうか。
以下は、風花未来が書いた「白痴」に関する記事です。
ムイシュキン公爵とアリョーシャの比較~ドストエフスキーの「白痴」「カラマーゾフの兄弟」より
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