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高村光太郎が戦時中に戦意高揚の詩を書いた自身の「愚かさ」を深く悔やみ、懺悔の心境で書き綴った連詩(詩群)は、『暗愚小伝』(あんぐしょうでん)といいます。

 

『暗愚小伝』、その背景と心境

 

  • 自責と隠遁生活: 光太郎は戦時中、影響力のある詩人として戦争を賛美し鼓舞する詩を多数発表しました。
  • しかし敗戦後、自分の詩に励まされて多くの若者が戦地へ赴き、命を落としたことに深い自責の念を抱きます。

 

  • 雪深い山小屋での執筆: 自らを厳しく罰するため、彼は東京を離れ、岩手県花巻郊外(太田村)の粗末な山小屋へ移り住みます。
  • 極寒で孤独な自炊生活の中、自らの半生と戦争責任を徹底的に見つめ直して書かれたのがこの作品です。

 

  • 発表と収録: 1947年(昭和22年)に雑誌『展望』で全20編からなる自伝的な連詩として発表され、後に詩集『典型』に収録されました。

 

時代のうねりと「暗愚」の告白

 

『暗愚小伝』の中で、光太郎はなぜ自分が戦争に協力してしまったのか、その際の精神状態を嘘偽りなく書き残しています。

 

彼がいかにして理性を失い、熱狂に飲み込まれていったかを告白した次の一節は非常に有名です。

 

昨日は遠い昔となり、

遠い昔が今となつた。

天皇あやふし。

ただこの一語が

私の一切を決定した。

私の耳は祖先の声でみたされ、

陛下が、陛下がと

あへぐ意識は眩(めくるめ)いた。

(『暗愚小伝』より抜粋)

 

亡き妻への懺悔の詩「報告」

 

『暗愚小伝』と並んで、敗戦と自身の愚かさを告白した詩として「報告」(1946年作)も広く知られています。こちらは最愛の亡き妻・智恵子に向かって語りかける形式で書かれたものです。

 

※1938年(昭和13年)10月5日に、智恵子は亡くなっています。粟粒性(ぞくりゅうせい)肺結核のため、53歳でその生涯を閉じました。

 

  • 智恵子への語りかけ: 「智恵子、日本はすつかり負けた」「私たちは暗愚の底に落ちこんで、全く世界の非難の的となつた」と、痛切な懺悔が綴られています。

 

光太郎は、これらの詩を通して自らの「暗愚(道理に暗く愚かなこと)」を糾弾し、残りの生涯を深い反省とともに生きました。自らの過ちをごまかさずに言葉で刻み込んだ彼の態度は、戦後の文学界においても特異な「戦争責任の引き受け方」として現在まで語り継がれています。

 

未刊詩篇『わが詩をよみて人死に就けり』

 

『わが詩をよみて人死に就けり』(わがしをよみてひとしにつきぬ)は、高村光太郎が戦後の1947年(昭和22年)に発表した連作詩『暗愚小伝』を構想する過程で書かれた未発表の草稿(ボツ原稿)とされている詩です。

 

生前には発表されませんでしたが、光太郎が自身の戦争責任や罪悪感にどう向き合っていたかをあまりにも生々しく、そして端的に表しているため、彼の戦後を語る上で非常に有名な作品となっています。

 

詩の背景と内容

 

この詩は、光太郎自身の「恐怖からの逃避」と「言葉の持つ恐ろしい結果」への痛切な懺悔です。

 

  • 極限の恐怖と自己防衛: 空襲下で「電線に女の太腿がぶらさがる」ような凄惨な死を目の当たりにし、自分自身が死の恐怖に押しつぶされそうになったこと。
  • そして、その恐怖から自分を救う(奮い立たせる)ために、戦意高揚の詩『必死の時』(1941年)を「必死になって」書いたと告白しています。

 

  • 若者たちの死: 自分が自己防衛のために書いたその詩を、戦地にいる若者たちが読み、それを心の支えにして実際に死地へと赴いてしまった事実への取り返しのつかない罪悪感が綴られています。

 

『わが詩をよみて人死に就けり』(全文)

 

作品は比較的短いため、全文を引用します。

 

『わが詩をよみて人死に就けり』(全文)

 

爆弾は私の内の前後左右に落ちた。

電線に女の太腿がぶらさがつた。

死はいつでもそこにあつた。

死の恐怖から私自身を救ふために

「必死の時」を必死になつて私は書いた。

その詩を戦地の同胞がよんだ。

人はそれをよんで死に立ち向つた。

その詩を毎日よみかへすと家郷へ書き送つた

潜航艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。

 

※表記は『高村光太郎全集』などの出典に基づきますが、資料により「大腿」「太腿」、「立ち向かつた」「立ち向つた」などの揺れが見られます。

 

光太郎は結果的にこの直接的すぎる詩を『暗愚小伝』には収録しませんでしたが、この原稿に刻まれた「自らの言葉が人を殺した」という重い十字架を背負い、花巻の粗末な山小屋で長く厳しい孤独な生活を送ることになります。

 

戦意高揚詩『必死の時』

 

高村光太郎の戦意高揚詩『必死の時』について。

 

先ほどの『わが詩をよみて人死に就けり』の中で、光太郎自身が「死の恐怖から私自身を救うために必死になって書いた」と告白し、特攻隊員(潜航艇の艇長)が死地に赴く心の支えにしてしまったという、極めて重い背景を持つ詩です。

 

この作品は太平洋戦争開戦直前の1941年(昭和16年)11月に書かれ、翌年1月の雑誌『婦人公論』に発表されました。

 

全体的に長いため、その思想と熱狂が最も強く表れている冒頭、中盤、結びの部分を抜粋して引用します。

 

『必死の時』(抜粋)

 

ああ必死にあり。

その時人きよくしてつよく、

その時こころ洋洋としてゆたかなのは

われら民族のならひである。

人は死をいそがねど

死は前方より迫る。

死を滅すの道ただ必死あるのみ。

必死は絶体絶命にして

そこに生死を絶つ。

(中略)

生れて必死の世にあふはよきかな、

人その鍛練によつて死に勝ち、

人その極限の日常によつてまことに生く。

未練をすてよ、

おもはくを恥ぢよ、

皮肉と駄駄とをやめよ。

そはすべて閑日月(かんじつげつ)なり。

(中略)

必死の境に美はあまねく、

烈烈として芳(こう)ばしきもの、

しづもりて光をたたふるもの、

その境にただよふ。

ああ必死にあり。

その時人きよくしてつよく、

その時こころ洋洋としてゆたかなのは

われら民族のならひである。

 

「閑日月(かんじつげつ)」とは、俗世間から離れて、心にゆとりを持ってゆったりと過ごす日々や、暇で時間に余裕のある歳月のことです。

 

※表記は旧仮名遣いや当時の表現を現代の読者にも読みやすい形で引用しています。

 

この詩が持っていた「危うさ」

 

一読してお分かりいただけるように、この詩は単に「敵を倒せ」と勇ましく叫ぶものではありません。

 

光太郎は彫刻家・芸術家ならではの研ぎ澄まされた感性で、「死に直面する極限状態(必死)こそが、雑念を払った最も美しく純粋な状態である」と、死を高度に「美化」してしまっています。

 

  • 死の美化と賛美: 生への執着(未練)を捨てることを「清く強いこと」「美しいこと」と断言しています。

 

  • 読者への影響: 一流の芸術家によるこの美しく格調高い言葉は、当時死の恐怖に直面していた若者たちにとって、あまりにも強い「麻薬」のような効果を持ちました。
  • 彼らはこの詩を読むことで、自らの死を「高邁な美しさ」に昇華させ、恐怖を麻痺させて戦地へ赴いたのです。

 

戦後、この強烈な「言葉の力」がどのような結果を招いたかを思い知ったからこそ、光太郎は身を切るような激しい後悔に苛まれ、雪深い花巻の山小屋での過酷な贖罪の生活へと向かうことになりました。