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北九州市八幡東区「復興平和記念像」:戦火からの復興と世界の恒久平和への祈り

 

八幡の復興平和記念像

 

概要と造形美

 

復興平和記念像は、JR八幡駅(北九州市八幡東区)から南へ伸びる直線道路の突き当たり、旧八幡市民会館前のロータリーに建つブロンズ製のモニュメントです。

 

彫刻家の樽谷清太郎氏によって制作され、1953年(昭和28年)5月3日に設置されました。

 

両手を水平に広げた女神のような女性像を中心に、その両脇に2人の子どもを配した山型の構図が特徴です。

 

女性像は「平和」を、手を高く掲げる子どもたち(天使)は「復興への意欲」を象徴しています。

 

背後にそびえる八幡のシンボル「皿倉山(さらくらやま)」のなだらかな稜線と見事に調和するシルエットを描いており、都市景観としても非常に優れた設計となっています。

 

北九州市八幡東区にある「復興平和記念像」

 

制作の意図:日本の復興を牽引した「鉄の街」の誇り

 

この像が制作された背景には、「戦争で焼け野原となった八幡の街の復興」という強い思いがあります。

 

ただし、平和への祈りについては「日本全体の平和」にとどまらず、「世界の平和」への貢献を誓うものでした。

 

台座にはめ込まれた当時の八幡市長による碑文には、「焼野(やけの)に萌え出る土筆(つくし)のように 吾等の愛する八幡は戦争の惨禍から新しい工業都市として力強く立ち上った」と記されています。

 

また、「ここに東洋の工場としての八幡の復興と世界の平和に貢献しようとする全市民熱望の記念としてこの像を樹(た)てた」とも刻まれています。

 

日本の近代産業を根底から支えた工業都市としての矜持と、平和な世界を希求する切実な願いが、この彫刻の核心です。

 

歴史的背景と小伊藤山の悲劇

 

復興と平和を強く願う背景には、1945年(昭和20年)8月8日の「八幡大空襲」という悲惨な歴史があります。

 

この日の空襲で大量の焼夷弾が投下され、市街地は焼け野原となり、約2500人もの尊い命が奪われました。

 

中でも凄惨なエピソードとして語り継がれているのが、現在の像からほど近い丘陵地「小伊藤山(こいとうやま)」での惨劇です。

 

そこに掘られていた巨大な横穴式防空壕には、空襲から逃れようと多くの中学生や市民が避難していました。

 

しかし、猛烈な火災による熱風と煙が壕内に流れ込み、約300名もの人々が窒息死するという痛ましい犠牲を出してしまいました。

 

現在、近くの小伊藤山公園にはその霊を慰めるための慰霊塔がひっそりと佇んでおり、こうした深い悲しみの上に現在の八幡の街が再建されたことがわかります。

 

長崎・広島の祈念像との対比

 

長崎の平和祈念像や広島の慰霊碑などが、主に原爆の犠牲者への深い追悼と核兵器廃絶という「祈り・鎮魂」の側面に重きを置いているのに対し、八幡の復興平和記念像は「復興への強いエネルギー」が前面に押し出されている点が趣を異にしています。

 

女性像の右手には平和の象徴である鳩がとまり、傍らの子どもたちはまるで喜びに満ちて飛び跳ねているかのような躍動感を持っています。

 

悲劇をただ悲しむだけでなく、新しい工業都市として未来へ向かって力強く前進していく、八幡という街ならではの明るさと生命力が造形に表れています。

 

現在の姿

 

建立から70年以上が経過した現在も、復興平和記念像は高い台座の上から八幡の街を見守り続けています。

 

戦争の記憶が薄れゆく現代において、凄惨な歴史の教訓を伝えるとともに、復興を成し遂げた先人たちの力強い足跡を静かに後世へ語り継ぐ、重要なシンボルとなっています。