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前回の考察で、中原中也と風花未来について、以下のように述べました。
中原中也と風花未来(かざはな みらい)。この二人の詩人の比較は、非常に興味深く、かつ現代的な視座を要するテーマです。
一方は昭和モダニズムを代表する「喪失と悲哀の詩人」であり、もう一方は現代のネット社会やブログ文化の中で人々の心を癒やす「希望と再生の詩人」です。
で、今回は、二人の詩を比較しながら、さらに具体的に、中原中也と風花未来の世界を深掘りしてみます。
中原中也の「少女と雨」と、風花未来の「あの雨の匂い」。
まずは、中原中也の詩「少女と雨」を引用。
少女と雨
少女がいま校庭の隅に佇(たたず)んだのは
其処(そこ)は花畑があって菖蒲(しょうぶ)の花が咲いてるからです
菖蒲の花は雨に打たれて
音楽室から来るオルガンの 音を聞いてはいませんでした
しとしとと雨はあとからあとから降って
花も葉も畑の土ももう諦めきっています
その有様をジッと見てると
なんとも不思議な気がして来ます
山も校舎も空の下(もと)に
やがてしずかな回転をはじめ
花畑を除く一切のものは
みんなとっくに終ってしまった 夢のような気がしてきます
次に、風花未来の詩「あの雨の匂い」を引用。
あの雨の匂い
一年のうちで
必ず何度か想い浮かぶ
ひとつの情景がある
あの時
わたしは
まだ
小学3年生だった
雨の日
友だちの家に
なぜか
ぽつんと
ひとり
残されて
縁側に
座って
留守番
していた
あのとき
わたしは
一心に
雨を
見つめていた
静かだった
風がないので
雨は
糸をまっすぐに
垂れるように
降っている
樹木は
雨を浴びて
若緑に
輝いていた
今でも鮮明に
よみがえるのは
あの静けさと
雨の匂い
雨に匂いを
覚えたのは
あれが最初だった
いや
匂いに
支配されたのは
あの時が
生まれて
初めてだった
今になって
なぜか
そんな気がして
そんな気が
体じゅうを
巡りにめぐってゆくうちに
あの縁側の
小学三年生に
わたしは
なりきっている
ああ
あの甘い
甘い
懐かしい匂い
最近は
雨に匂いがあることさえ
忘れてしまっていたけれど
あの時の私は
雨の匂いが
体に沁み入ってゆくのを
確かに感じていた
感じ入っていた
静けさの底で
ひとりぼっちで
縁側に
ぽつんと
座りながら
今日は無性に
あの静けさと
あの雨の匂いに
帰りたい
帰ってしまいたい
この二篇の比較は、詩における「雨」という舞台装置がいかに異なる精神世界を映し出すかを示す、非常に文学的な問いです。
両者とも「雨の中の孤独」を描いていますが、その孤独の質と、そこから導き出される世界観(結末)は対照的です。
以下に、詳しく比較・論評いたします。
- 視点と距離感の違い:「観察」か「没入」か
まず決定的に異なるのは、詩的自我(語り手)の立ち位置です。
- 中原中也『少女と雨』:三人称的・観察者
- 語り手は、校庭の隅にいる「少女」を見ています。しかし、その視線はどこか冷徹で、カメラのレンズのようです。
- 「音楽室から来るオルガンの音を聞いてはいませんでした」と断定するなど、少女の内面や周囲の状況を神の視点で記述していますが、語り手自身の感情は直接語られません。
- これにより、絵画的で静謐な、しかしどこか不安な距離感が生まれています。
- 風花未来『あの雨の匂い』:一人称的・回想者
- 語り手は「わたし」であり、自身の記憶の奥深くへと潜っていきます。
- 「縁側の小学三年生に/わたしは/なりきっている」という表現にある通り、観察するのではなく、過去の自分と融合(没入)しています。
- 読者は、作者の肌感覚を通して、一緒にその縁側に座らされているような親密さを感じます。
- 「雨」の意味:「遮断」と「媒介」
雨が何をしているか、その役割が真逆と言えます。
- 中原中也の雨:世界を「遮断」し「停止」させるもの
- ここでの雨は「諦め」の象徴です。
- 「花も葉も畑の土ももう諦めきっています」という擬人化は、中也特有の厭世観です。
- 雨は、少女と世界(音楽室や校舎)との関係を断ち切り、世界を静止画のように凍結させています。
- 風花未来の雨:過去と現在を繋ぐ「媒介(メディア)」
- ここでの雨は「糸」であり、匂いです。
- 「雨は/糸をまっすぐに/垂れるように」という描写は、天と地を繋ぐだけでなく、現在の「私」と過去の「少年」を繋ぐタイムトンネルの役割を果たしています。
- 雨音や湿気がトリガーとなり、記憶を呼び覚ますプルースト的(『失われた時を求めて』のマドレーヌのような)装置として機能しています。
- 感覚の推移:視覚的幻覚 vs 嗅覚的没入
詩のクライマックスにおける感覚の使い方が、それぞれの作家の特質をよく表しています。
- 中原中也:視覚の変容(めまい)
- 中也の詩は、後半でシュルレアリスム的な幻覚へと突入します。
- 「山も校舎も空の下に/やがてしずかな回転をはじめ」。
- 静止していたはずの風景が回り出すこの「回転」は、中也の詩によく見られる「めまい」の感覚です。
- そして「花畑を除く一切のものは/みんなとっくに終ってしまった 夢のような気」という、ニヒリズム(虚無)へと着地します。
- 現実感が喪失していく恐怖と美しさが同居しています。
- 風花未来:嗅覚の覚醒(癒やし)
- 対して風花未来の詩は、「匂い」という生理的な感覚に収斂していきます。
- 「あの甘い/甘い/懐かしい匂い」。
- 視覚的な「回転」のような非日常ではなく、誰もが胸の奥に持っている「原風景」への回帰です。
- 特筆すべきは「甘い」という表現です。
- 雨の匂いを「甘い」と感じるのは、孤独が寂しいものではなく、母親の胎内にいるような「守られた孤独(サンクチュアリ)」だったからです。
- 虚無ではなく、安らぎへの着地です。
- 思想とテーマの比較論
「終わってしまった夢」と「帰りたい場所」
この二篇を並べた時、最も胸を打つのはラストシーンの対比です。
中也:「一切のものは/みんなとっくに終ってしまった」
未来:「あの雨の匂いに/帰りたい/帰ってしまいたい」
- 中原中也にとって、雨の中の風景は「喪失の確認」です。
- 世界はすでに終わっており、少女(あるいは詩人の魂)だけが、諦めの中で菖蒲の花と共に取り残されている。
- そこには、取り戻せない時間への絶望的な認識があります。
- 風花未来にとって、雨の中の風景は「回復の源泉」です。大人になって忘れていた感受性や、純粋に世界と対峙していた時間を、雨が思い出させてくれる。
- そこには「帰りたい」という切実な願い、つまり生きるためのエネルギー(憧憬)があります。
総評
『少女と雨』は、世界から色が抜け落ちていくような「無彩色の幻想詩」であり、中原中也という詩人が抱える、癒やしがたい孤独と世界への違和感が結晶化しています。
『あの雨の匂い』は、世界に色が戻ってくるような「体温のある叙情詩」であり、風花未来という詩人が大切にする、孤独の中にある幸福(独居の豊かさ)と、少年性への回帰願望が描かれています。
同じ「雨の日の孤独」を描きながら、一方は「世界は幻である」と突き放し、もう一方は「あの感覚こそが真実だ」と抱きしめる。
この二篇は、「絶望的な美」と「救済的な美」の対比として、非常に優れた対を成していると言えます


