とびっきりの美しさは、高い緊張感を強いる。
前回は、「世界で一番美しいもの」についてお伝えしました。
「世界で一番美しい」と感じているものと「最も『まどか』を覚える状態」とが一致している、同じだと答える人はいるかもしれません。
吉川英治が語った「桜の木でお弁当を広げて花見を楽しむ老夫婦の姿」は、まさに「まどかなり」の世界と言えます。
しかし、大抵は「世界で一番美しい」と感じるものと、「最も『まどか』を覚える状態」とは、異なっているでしょう。
「まどか」は美しい、でも「世界で一番」というところが肝です。
「世界で一番美しいもの」は、ほとんどの場合、日常的ではない、稀有な状態でのみ成立します。
要するに、高い緊張感の中で輝くのが「世界で一番美しいもの」なのです。
緊張から解き放たれているのが「まどか」の特徴。
しかし、「まどか」は、緊張がゆるんでいる時に発動しやすい、という特徴がある。
平たく言えば、「まどか」は緊張を嫌います。緊張していない状態を好むのが「まどか」なのですね。
肩こり、腰痛、背筋痛に、私は長年悩まされてきました。
仕事が原稿書きであったがためです。いわゆる「職業病」です。
早稲田大学の近くに住んでいた頃、よく通った整骨院の先生に言われた言葉を今も鮮明に憶えています。
「人は緊張するのは簡単だが、リラックスするのは難しいんだよ」
そう言われてみると、私の人生を振り返ると、常に緊張してきた、そんな気がします。
これだけ、体のそこかしこに痛みを覚えてくると、緊張から自分自身を解き放つことが、いかに難しいかに気づかざるを得ません。
実は「まどか」においても、「緊張から自分を解放すること」が重要なのです。
以下、人を緊張から解き放ってくれる、心を浄化させてくれる「美しいもの」をご紹介しましょう。
夕焼け
フランクルの名著「夜と霧」の中に出てくる、感動の場面。アウシュビッツ収容所で激しく理不尽な労働で疲れ果てた捕虜たちの一人が、真っ赤な夕焼けを見て「世界って、なんて美しいんだろう」と、うっとりと囁くのように言ったという話。
いつガスかまどに放り込まれるかもわからない絶望的な日々。過労と飢えと死への恐怖に打ちのめされそうな人の心を、和ませ、麗しい色に染め上げた夕焼け(美しきもの)の力は大きいですね。
学生の頃、この話を初めて読んだのですが、極限状況化にも関わらず、美しい夕焼けに感動する……人間って、何て美しいんだろうと感じ入ったのを憶えています。
「美」に感動する時、人は人らしくなれるのだと思うのですね。
だから多くの人たち(出逢う人すべて)に、美を感じる心を大切にしてほしい、と風花は切に願っています。
糸トンボ
幼い頃の思い出ですが、近所の蓮池で見つけた蒼い糸トンボから、しばし眼を離すことができませんでした。じっと息をとめて、見入っていたのだと思います。あの糸トンボは、どこに行ったのだろう……。
水色のカラマツ林
五月の高原。清里から野辺山に向かう電車の中から見た、カラマツ林が忘れられません。
樹木の芽吹きは、若緑色が普通ですが、その時見た、カラマツ林は水色でした。
カラマツ林の中を遠ってゆく時、私は水の中にいるような錯覚にとらわれたほどです。
空気が澄んでいると、芽吹きも神々しいまでに美しい。
あの時の私の心も、澄み切った水のように透明だったのだと思うのです。
東山魁夷の絵の中で描かれた樹木は、独特の「青」をしていますが、幼い頃、高原に暮らしたことがある画伯も、幻想的な樹木の芽吹きを見つめ、独自の色彩感覚を育てたのかもしれません。
涼しい気な眼差し……眼のきれいな人
何十年も前の話。ふと街ですれ違う女性の「涼しげな眼差し」に、ハッとして足を止めたことがありました。
あの「涼し気な眼差し」は、遠い記憶のかなたではありますが、まだ消えずに私の心に刻まれています。
思えば「涼し気な眼差し」とした人が、たくさんいた気がします。
世の中に、今ほど情報があふれていなくて、情報に汚染されていない、つまり「心」がきれいなままの人が普通にいた時代がありました。
「眼は心の窓」と言いますからね。
「涼し気な眼差し」に出逢うことはなくなりましたが、「きれいな眼をした人」も極めて少なくなっている気がします。
こんな時代……きれいな眼の人になる教育、眼のきれいな人になろう運動が始まってほしいと思うのですが……
次回は「風花まどか大学」、即ち「まどか学」が目指す「美しさ」について、お伝えしますね。