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●第1回目のライブチャットは、12月14日(水)20時からを予定しております。

 

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真の「美しさ」を知ることが、「まどか」の真の理解につながる

 

今回と次回の2回で「美しいもの」と「まどかなるもの」とを比較してみたいと思います。

 

そうすることで「まどか」とは何か、どのような特徴があるのか、その独自性は何かが、より鮮明になると考えているからです。

 

実は、すでに「美しいもの」については書き上げていたのですが、なぜか記事が消えてしまいました。

 

下書き保存したつもりが、そうなっていなかったのかもしれません。

 

気を取り直して、今回は「美しいもの」について粘り強く書いてみることにします。

 

世界で一番美しいものは?:吉川英治の場合

 

小説「宮本武蔵」で有名な作家の吉川英治は、世界で最も美しいものについて、以下のように語っています。

 

桜の木の下でお弁当を広げて花見をしている老夫婦の姿は、この世で一番美しい。

 

いかにも「人生肯定の人」である吉川英治らしい言葉です。

 

吉川英治の小説には悪人が出てこない、とはよく言われること。

 

しかし、悪人が出てこない小説なんて面白くないじゃないか、という疑問がわいてきます。

 

善人と悪人の両方がいるのが世の中だし、私たちの中にも善人と悪人が同居しているでしょう。

 

20代の頃は、吉川英治の小説を読んだ時に、物足りなくて、没頭できませんでした。

 

しかし、今になってみると、世の中いろんな人がいるし、もちろん、善人ばかりではなく、悪人もいることは百も承知で、小説を書いたであろう、吉川英治の徹底した姿勢が、凄いと思えるのですね。

 

人間愛も、ここまで来ると、侮れないだけでなく、深く感心させられるのであります。

 

性善説とか、性悪説とかいう次元を、吉川英治は超越して人間をとらえている。吉川英治のあふれんばかりの人間愛が、吉川英治をして悪人を欠かせなかったと言うべきでしょうか。

 

仲睦まじく、花見を楽しむ老夫婦の姿に、志向の美を感じた吉川英治の人に対する愛のじんわりとした愛情に、今の私は感動さえ覚えるのです。

 

世界で一番美しいものは?:チャップリンの場合

 

喜劇王と呼ばれたパントマイム俳優であり、「街の灯」「モダンタイムス」「独裁者」「ライムライト」などの名作を生み出した偉大な映画監督である、チャールズ・チャップリンは、世界で最も美しいもについて問われ、以下のように答えています。

 

一流の選手同士のテニスの試合は、世界で一番美しいと感じる。

 

この答は、私にとって意外でした。

 

チャップリンは「美しさの中には必ず哀しみがある」という名言を遺しています。

 

人生の哀歓を、感傷的ともいえる、豊かな抒情性でもって、時にはユーモアとペーソスを交えて表現し続けたチャップリン。

 

だから、もっと情感あふれる美学を聞きたかった。しかし、その期待に反してチャップリンは、実にクールに、一流のテニスプレーヤーが一番美しいと断言したのです。

 

このクールさ、客観性は、映画監督には不可欠な視点でしょう。映画における美は、ほとんどすべて計算された美しさなのですね。

 

チャップリンは、一流のテニスプレーヤーの動きに、計算された、合理的な動きの美しさを感じ取っていたのではないでしょうか。

 

そして、それプラス、合理性を超えた、神の動きを読み取っていたと思われます。

 

世界で一番美しいものは?:クラマーの場合

 

「日本のサッカーの父」と呼ばれる、サッカーの名コーチである、デットマール・クラマーは以下の言葉は有名です。生前は「クラマーさん」という名で親しまれました。

 

己(おのれ)の役割を全(まっと)うするために、全力を尽くした人間ほど美しいものはない。

 

この言葉は、メキシコで3位決定戦を終えた日本チームをクラマーさんが見て、発した言葉だったと思います。選手全員が全力を出し尽くし、疲れ果て、倒れ込んでいたそうです。

 

サッカーに密着して解説するなら、「選手1人ひとりが各ポジションという役割を全力で果たした姿は美しい」ということになります。

 

しかし、現在では、しばしば、自分の好きなことに打ち込んでいる人たちを、賞賛する時の言葉として使われているんですね。

 

かなり前のことですが、正月の高校サッカーの放送中に、このクラマーさんの言葉は紹介されたのですが、なんて素晴らしい言葉なんだろうと感じ入りました。

 

クラマーさんのもっと詳しいエピソードはこちらに

 

世界で一番美しいものは?:風花未来の場合

 

「世界で一番美しと感じるものは」は、人それぞれ異なるでしょう。

 

風花未来が、同じを質問をされたら、躊躇なく、以下のように答えます。

 

灰の中から蘇る不死鳥のように、絶望の淵から復活した人間が最も美しい。

 

この美意識を、私は「蘇(よみがえ)りの美学」と呼んでいます。

 

この言葉を、私は二十歳の時に、一冊の大学ノートに記しました。今このノート「芸術論覚書」は、ほぼ完成された美学論になっているから驚きです。

 

どれほど未熟であっても、全身全霊を傾けて突き詰めれば、真実を見えてくるのですね。

 

「灰の中から蘇る命を礼賛」した理由は?

 

その頃の私は(実は今でもどうの傾向はあるのですが)、「人生をギリギリのところで肯定する」思想を独りで極めようとしていたからだと思います。

 

いわゆる「人生肯定」ですね。

 

「人生肯定」を突き詰めますと、自ら死なない、自殺しない、ひたむきに生きようとする、となります。

 

なぜ風花未来は、二十歳の時に「蘇(よみがえ)りの美学」を唱えたのか?

 

その後、風花は4回ほど死にかけるという体験をすることになります。一つ間違えば死んでいたかもしれないのに、なぜか、今日まで生きているのですね。

 

ひょっとすると、二十歳の頃、私は自分の未来を予見していたのかもしれません。

 

「滅びの美学」を、風花は未来のために全否定します。

 

この「蘇りの美学」の真逆なのが「滅びの美学」です。

 

太平洋戦争の末期、日本は本土決戦をするべきだったと、今も主張している人がいます。桶谷秀昭という文芸評論家です。

 

ほとんど戦うための武器が尽きているのに、竹槍で連合国と戦えなどという暴言は、精神論にしても、あまりにも低劣すぎます。

 

本土決戦をなぜ主張したいのか、その気持ちはわかりますが、そんな暴言を吐いて、米国や日本人に怒りをぶつけても意味がない。

 

本土決戦をするくらいの覚悟を持って、巨大な勢力に負けず、アイデンティティーを貫くことは、戦後80年になろうとしている現代においてこそ必要だと言うのならば、ある程度は納得できます。

 

しかし、今の日本にはアイデンティティー(自分の存在する意義を証明する確かな価値観や信念)そのものがないのです。まずはそれを確立しなければいけません。

 

日本人とは何か、私たちは何者なのか、そいう根源的な問題と、まず向き合うべきです。

 

世界で唯一の被爆国である日本は、どの国に対しても対等の立場で、世界平和の実現に努力することこそが、アイデンティティーの確立につながるのではないでしょうか。

 

本土決戦を主張する人は、屈辱を受け入れて長らえるよりは、潔く滅びた方が美しいという考えなのでしょうが、私はその美学には断固反対します。

 

小説などの芸術文化の一ジャンルとしての「滅びの美学」は理解できますし、その価値も認めています。

 

しかし、人の生き方としては「滅びの美学」は、私は否定したいのです。

 

潔く死ぬことは、美しいことでもなんでもありません。

 

人間は、たとえ不細工で、無様でも、生きなければいけない時があるし、その不格好さを美しいと感じるセンスがなければ、人生をギリギリのところで肯定できません。

 

人生肯定とは、きれいごとではありません。人生肯定を貫くためには、命をかけるしかない。泥だらけになって、のた打ち回らねば、希望の未来はつかめない、と私は腹をくくっているのです。

 

美しい人は、必ず泥まみれになっているのです。