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四國五郎(しこく ごろう)という人物の輪郭、その特筆すべき活動、そしてガタロさんとの深い関係性について、順を追ってご説明します。
- 四國五郎のプロフィールと主な活動
四國五郎(1924年〜2014年)は、広島を拠点に生涯をかけて「反戦・反核」と「平和」を訴え続けた「詩画人(画家であり詩人)」です。
- 過酷な戦争体験と喪失:
- 20歳で徴兵されて満州へ渡り、敗戦後はシベリアで3年以上の過酷な抑留生活を経験しました。
- 1948年にようやく広島に復員しますが、そこで最愛の弟(直登さん)が原爆の犠牲になっていたことを知ります。
- 平和への創作活動:
- 自らの戦争体験、シベリア抑留、そして弟の被爆死という凄惨な原体験が、彼の創作の原動力となりました。
- 「戦争の記憶を伝えること」を自らの使命と課し、絵画と詩を通じて平和への祈りを表現し続けました。
- 主な代表作と活動:
- 絵本『おこりじぞう』の挿絵:
- 日本語の教科書などでも取り上げられるこの名作絵本の絵を描いたのが四國五郎です。
- 原爆詩人・峠三吉との共闘:
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- 広島の原爆詩人として名高い峠三吉らと共に詩誌『われらの詩』に参加。峠三吉の『原爆詩集』などの表紙や挿絵も手がけました。
- 広島平和記念公園にある峠三吉の詩碑(「ちちをかえせ ははをかえせ…」)をデザインしたのも彼です。
- 画文集『わが青春の記録』:
- 戦争とシベリア抑留の記憶を、風化させまいと1000ページにも及ぶ膨大な絵と文章で記録しました。
- 特に際立った特徴:
- 「アート・アクティビズム」の先駆者
四國五郎の最大の特徴は、自らの芸術を特権的なものとせず、常に「市井の人々と共にあり、社会に直接訴えかける手段」として用いた点です。
- 言葉と絵の融合(詩画人):
- 彼はキャンバスに向かうだけの画家ではありませんでした。自らも詩を書き、言葉と視覚芸術を融合させることで、人々の心に深く突き刺さるメッセージを生み出しました。
- 「辻詩(つじうた)」という抵抗運動:
- 戦後の占領下、原爆や平和について語ることが厳しく統制されていた時代に、彼は峠三吉らと共に、詩と絵を描いたポスターを街角にゲリラ的に貼り出す「辻詩」という活動を行いました。
- これは現代で言うバンクシーのようなアート・アクティビズム(芸術による社会運動)の先駆けとも言える、命がけの表現活動でした。
※バンクシー(Banksy、本名および生年月日未公表)は、イギリスを拠点とする素性不明のアーティスト(路上芸術家)、政治活動家、映画監督。
- 名声より信念:
- 中央の画壇で名声を得ることには背を向け、ひたすら広島の地で、平和運動や市民の暮らしに寄り添う市民画家としての生き方を貫きました。
- ガタロさんとの関係:
- 「師」と「弟子」の深い絆
ガタロさんと四國五郎は、単なる知人ではなく「師弟関係」にありました。
ガタロさんが四國五郎を「人生の師」「絵の師匠」として深く敬愛していたのです。
ガタロさん(広島市内の基町高層アパートで清掃員として働きながら、使い古された清掃道具などを描き続ける画家)もまた、被爆者の父を持ち、親戚の多くを原爆で亡くした背景を持っています。
- 「ヒロシマ」を描くことへの導き:
- 若き日のガタロさんは、来る日も来る日も原爆ドームのスケッチを続けていました。
- そのガタロさんが、被爆地としての「ヒロシマ」の真髄をどう描くべきか、その精神性や視点を深く学んだのが四國五郎との交流を通してでした。
- 「名もなきもの」への温かな眼差し:
- ガタロさんが「汚いモノをきれいにする清掃道具ほど美しいモノはない」と語り、すり減ったモップや雑巾に命の尊厳を見出して描くその根底には、四國五郎から受け継いだ「声なき声を聞き、打ち捨てられたものに寄り添う」という深いヒューマニズム(人間愛)が流れています。
2017年には、横浜などで「四國五郎・ガタロ師弟展」という展覧会も開催されています。
ガタロさんがテレビで熱弁をふるっていたのは、単に絵の技術を教わったからではなく、「表現者として、人間としてどう生きるか」という魂の根幹を、四國五郎というひとりの詩画人から受け継いだという強烈な自負と感謝があったからに他なりません。
言葉と絵で真実を紡ぎ出そうとした四國五郎の生き様は、同じように言葉や表現に向き合う方の心には、ひときわ強く響くものがあるのではないでしょうか。


