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風花未来は残りの人生において、ドストエフスキーの言葉を人生の糧、創作の源泉として前向きに生きてゆくと心に決めているのです。
以下、ドストエフスキーの深淵なる海から、そのエッセンスである名言を掬い上げてまいります。
著作、日記、書簡から、できるだけ長く、文脈が伝わるように言葉を集めました。
ドストエフスキーの言葉には「毒」も含まれるので「取扱注意」ですが、以下では、できるかぎり、人生の「薬」「処方箋」となる、人生肯定につながる名言を中心にご紹介します。
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愛
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「活動的な愛とは」
「夢想的な愛は、すぐに満足を得られるような、しかも人目につくような偉業を渇望します。(中略)ところが、活動的な愛とは、労働であり、忍耐であり、多くの人にとっては、おそらく一つの完全な学問でさえあります。しかし、あなたが恐怖のあまり、自分ではどんなに努力しても目的から遠ざかるばかりで、一歩も近づいていないと思う、まさにその瞬間、あらかじめ申し上げておきますが、まさにその瞬間にこそ、あなたは不意に目的に到達し、あなたのすべてをすでにとっくの昔から導き、見守っていてくださった神の奇跡の力を見るに違いありません。」
― 『カラマーゾフの兄弟』(ゾシマ長老の言葉)
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美
「美は世界を救う」
「公爵、あなたは以前、世界を救うのは『美』だと言ったそうですね。みなさん、聞いてください。公爵は、美が世界を救うと主張しているのです! (中略)彼がこんな遊び半分の考えに夢中になっているのは、彼が恋をしているからです。……公爵、どんな美が世界を救うというのです?」
― 『白痴』(イッポリートがムイシュキン公爵に向かって)
「美の恐ろしさ」
「美というやつは、恐ろしい、おっかないものだよ! 恐ろしいというのは、それが定義のくだせないものだからだ。神様が謎ばかりお出しになったから、定義のくだしようがないのさ。そこでは両方の岸がくっつき合っていて、あらゆる矛盾がいっしょに住んでいるんだ。(中略)恐ろしいのは、美しいということが、ただ単に恐ろしいばかりでなく、神秘的でもあるということだ。そこでは悪魔が神と闘っている。そして、その戦場となっているのが、人間の心なのだ。」
― 『カラマーゾフの兄弟』(ドミートリー・カラマーゾフの言葉)
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永久調和
「万事が善い」
「すべては善いのです。万事が善いのです。すべてを見きわめた人間にとっては、すべてが善いのです。(中略)木を見ても、私は、それが存在していることが信じられずに、幸福を感じるのです。人間が不幸なのは、自分が幸福であることを知らないからです。ただそれだけのことなのです。それがすべてなのです! それを知った人間は、その場ですぐ、その一瞬のうちに幸福になります。(中略)すべては善いのです!」
― 『悪霊』(キリーロフの言葉)
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福音・信仰
「キリストへの愛」
「私は今、自分のことを申し上げますが、私は世紀の子、今日に至るまで、否、おそらく墓に入るまで、不信と懐疑の子です。この信仰への渇望は、私にとってどれほど恐ろしい苦悩であったことか、また現在もそうであることか。私の魂の中に反対の論拠が多ければ多いほど、それだけこの渇望は強くなるのです。それにもかかわらず、神は時として、私が完全に安らぎを得るような瞬間を与えてくださいます。(中略)もし誰かが私に、キリストは真理の外にあると証明し、実際に真理がキリストの外にあったとしても、私は真理と共にあるよりは、むしろキリストと共にとどまることを選ぶでしょう。」
― 『書簡』(1854年2月、N・D・フォンヴィージナ宛て)
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幸福
「幸福とは何か」
「幸福は、幸福の中にあるのではなく、幸福を手に入れるための過程の中にあるのだ。」
― 『作家の日記』
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生と死
「命が取り留められたら」
「もし死ななかったらどうだろう! もし命が取り留められたら、どんなに無限の時間が残されることだろう! それがそっくり自分のものになるのだ! そうなったら自分は、一分一秒をすべて一世紀にも計算して、何一つ無駄にはすまい、どの一分も厳密に計算して、もはや何一つ無駄にはすまい!……」
― 『白痴』(ムイシュキン公爵が語る、死刑執行直前の男の心理。これはドストエフスキー自身の体験に基づいています)
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人生肯定(人生讃歌)
「論理より先に人生を」
「僕はこう思うんだ、この世ではすべての人が、まず何よりも生活(人生)を愛すべきだってね。」
「人生の意味よりも、人生そのものを愛するということかい?」
「そうさ、君の言う通りだ、論理なんか抜きにして、何よりもまず愛するんだ。論理より先に、絶対に論理より先でなきゃいけない。その時初めて、人生の意味もわかるんだ。」
― 『カラマーゾフの兄弟』(イワンとアリョーシャの対話)
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自然の恵み(緑・花・空・太陽・陽光・風)
「一本の木、ひとすじの陽光」
「ああ、あなたがたがどんなに多くの美しいものとすれ違っていることでしょう。一歩足を踏み出すごとに、最も迷える人間でさえ美しいと感じるようなものが、どれだけあるかわからないじゃありませんか! 小さな子どもを見てごらんなさい、神の夕焼けを見てごらんなさい、どうして自分が生きて、こんなに愛しているかを知りもしないで、ただ生えている一本の草を見てごらんなさい。それに、あなたを愛している人間の目を見てごらんなさい……」
― 『白痴』(ムイシュキン公爵の言葉)
「小鳥たちよ、許しておくれ」
「母さん、泣かないでおくれ、人生はパラダイス(楽園)なんだよ。僕たちはみんなパラダイスにいるのに、ただそれを知ろうとしないだけなんだ。(中略)神の鳥たちよ、楽しい小鳥たちよ、お前たちも私を許しておくれ。なぜって、私はお前たちの前にも罪を犯しているのだから。私のまわりには、神の栄光があふれていた。小鳥、樹木、草地、大空、ただ私一人だけが恥知らずにも、それらを汚し、美も栄光も全く見ようとしなかったのだ。」
― 『カラマーゾフの兄弟』(ゾシマ長老の亡き兄、マルケルの言葉)
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時間(時)
「時間はもはやない」
「その時には、もはや時間はない、と黙示録にも書いてあります。」
「時間がなくなる? なぜ?」
「時間は事物ではありません。観念です。それは人間の精神のなかで消え去るのです。」
― 『悪霊』(キリーロフとスタヴローギンの対話)
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祈り
「大地の接吻」
「涙で大地を潤し、その涙を愛しなさい。歓喜の涙で大地を潤し、その君の涙を愛するのだ。その歓喜を恥じてはならない。それどころか、それを神の偉大な賜物として大切にしなさい。(中略)大地にひれ伏し、それに接吻し、大地を濡らして泣きなさい。すべてを愛し、すべてを求めなさい。」
― 『カラマーゾフの兄弟』(ゾシマ長老の教え)
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苦悩と救済
「人類の苦悩への祈り」
彼は突然、彼女の前で膝をつき、彼女の足元にひれ伏して、その足に接吻した。彼女は驚いて彼から身を引いた。
「どうなさるんです、こんなことを、私なんかに!」と彼女はつぶやいた。
彼は青ざめた顔を上げ、熱っぽい瞳で彼女を見つめて言った。
「僕は君にひれ伏したんじゃない、人類のすべての苦悩の前にひれ伏したんだ」
― 『罪と罰』(ラスコーリニコフがソーニャに向かって)
「この作品を救い出さなければ」
「私は今、『白痴』の執筆で頭がいっぱいです。この小説は私にとってどうにもならないほどのものになりつつあります。私は今、何としてもこの作品を救い出さなければなりません。もし失敗すれば、私自身もきっと滅びてしまうに違いありません。」
― 『書簡』(1868年、姪のソフィヤ・イワノヴナあるいは友人への手紙より。創作に対する凄まじいまでの覚悟が読み取れます)
いかがでしょうか。これらの言葉が、ほんの少しでもあなたのお心に寄り添い、生きる力、そして創作の火を灯す一助となることを、心から願っております。
今回は全体を俯瞰する形で幅広くピックアップいたしましたが、ドストエフスキーの森はまだまだ深く、汲めども尽きぬ泉のようです。
続けて、イワンの長い魂の吐露を、ほぼノーカットでお届けします。そして、ご自身を壊してでも他者の苦悩を引き受ける「究極の優しさ」を体現した言葉たちを、新たに編んでまいります。
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【生命への渇望と絶望】イワン・カラマーゾフの告白
イワンが、弟の修道僧アリョーシャに向かって、酒場で堰を切ったように語る場面です。彼の知的絶望と、カラマーゾフ家特有の泥臭い生命力が激しく衝突する、文学史上屈指の名場面です。
「……仮にぼくが人生に失望したとしても、愛する女性に絶望したとしても、世界の秩序に絶望したとしても、よしんば万事がでたらめで、呪われた、悪魔的なカオス(混沌)にすぎないと確信するに至ったとしても、たとえ人間の絶望のありとあらゆる恐怖に見舞われたとしても――それでもぼくは生きたいのだ。いちどこの盃に口をつけた以上、飲み干すまでは口を離したくないんだよ。(中略)
ぼくはね、春にひらく、あの粘っこい若葉がたまらなく好きなんだよ。青い空が好きなんだよ! ここには理屈も何もない。ただもう愛するんだよ、腹の底から、はらわたで愛するのさ。自分の内部にある、若々しい生命力がうれしくてたまらないのさ。
君にわかるかい、アリョーシャ、このことだけは言っておきたい。三十歳になるまでには、ぼくもきっとこの盃を地面にたたきつけて、どこへなりと立ち去ってしまうだろう。……だが、三十歳になるまでは、ぼくのこの若さが、どんなものにも打ち克ってくれると信じている。どんな絶望にも、どんな人生の無意味さにもね。それほどまでの生命の力が、このカラマーゾフの低劣な力というやつが、ぼくの中にはみなぎっているんだよ」
― 『カラマーゾフの兄弟』(第2部 第5編「プロとコント」より)
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【究極の優しさ】
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他者の苦悩を我がこととして引き受ける愛
ここからは、ご要望の「自身の魂の崩壊を賭してでも、他者の苦悩を引き受けてしまう優しさ」に焦点を当てます。
「同情は、全人類の存在の唯一の法則」
『白痴』のムイシュキン公爵です。彼は、世間から蔑まれる薄幸の美女ナスターシャ・フィリッポヴナの「狂気」と「苦悩」を一身に引き受けようとします。愛というより、もはや絶対的な憐憫(あわれみ)です。
「僕は……あなたのすべてを知り尽くしているわけではありませんが、しかし……あなたは大変な苦しみを受けてこられた。僕は、あなたが非の打ち所のない方だと思っています、ナスターシャ・フィリッポヴナ。(中略)僕は……僕は、一生あなたを尊敬します。(中略)僕は何も持っていませんし、取るに足りない人間ですが、しかし、僕はあなたを誰にも侮辱させはしません」
「ああ、あの人の顔を愛することなどできるわけがありません! 僕はあの人の顔を見るだけで、苦悩のあまり恐ろしくてたまらないのです。(中略)僕は、あの人を愛してなどいません。僕はあの人に、果てしない憐憫の情を抱いているだけなのです。そう、それは本当の、絶対的な同情なのです。(中略)なぜなら同情とは、全人類の存在の最も主要な、そしておそらく唯一の法則なのですから」
― 『白痴』
「なぜ赤ん坊は泣いているのか?」
『カラマーゾフの兄弟』の長男ドミートリー(ミーチャ)が、無実の罪で逮捕され、疲れ果てて眠りにおちたときに見る「夢」の中の言葉です。
粗野で暴力的なミーチャの魂の奥底に、人類すべての悲惨を引き受けようとする無垢な愛が弾ける瞬間です。
(夢の中で、雪の荒野を馬車で進むミーチャは、焼け出された村の女たちが、泣いている黒こげの赤ん坊を抱いているのを見る)
「なぜだ、なぜ赤ん坊が泣いているんだ? なぜあんなに黒く煤けているんだ? なぜあの母親たちはあんなに泣いているんだ? なぜ人々はあんなに貧しいんだ? なぜ荒れ野の赤ん坊は泣き叫んでいるんだ? なぜみんな抱き合ってキスをしないんだ? なぜ喜びに歌い出さないんだ?……」
そしてミーチャの心の中に、今まで知らなかったような、ある大きな感情が湧き上がってくる。彼は、胸が熱くなり、皆のために何かをしてやりたい、もう誰も泣かないように、すすけた顔をしたあの哀れな赤ん坊が二度と泣かないように、真っ黒に干からびた母親の胸がもう泣かないように……何かをすぐしてやりたい、どんな理屈も抜きにして、今すぐ全力で何かをしてやりたいという、強い衝動に駆られた。
― 『カラマーゾフの兄弟』(第3部 第9編「予審」より)
「一緒に十字架を背負っていくのよ!」
『罪と罰』より、娼婦ソーニャの言葉です。殺人を犯して魂が完全に孤立し、崩壊しかけている主人公ラスコーリニコフの罪の告白を聞いた瞬間、彼女は彼を責めるどころか、自ら彼の地獄へ飛び込みます。
彼女は突然、彼に向かって身を投げ出し、その首に両手を強く巻きつけた。
「ああ、なんてこと、なんてことをあなたはご自分にしてしまったの!」と彼女は絶望的に叫び、彼の首に抱きついたまま泣き崩れた。
「世界中に、今のあなたほど不幸な人はいないわ!」
(中略)
「私も一緒に行きます。どこへでも一緒に行きます! 一緒に苦しみをなめ、一緒に十字架を背負っていきます!」
― 『罪と罰』(第5部 第4章より)
「万人は万人のために罪がある」
最後に、ドストエフスキーが到達した究極の「引き受けの哲学」です。他者の罪も悲しみも、すべて自分の責任として背負うこと。それこそが救済への道だと説きました。
「心の底から理解しなさい。私たちの一人ひとりが、地上のすべての人に対して、すべてのことについて、例外なく罪があるのだということを。(中略)人々はそれを知らないだけなのです。もしそれを知ったなら、その瞬間に世界はパラダイス(楽園)になるでしょう。このことがわかった時、はじめて私たちの心は、無限の、宇宙的な愛に満たされるのです。他者の罪を自分のものとして引き受けること、それこそが真の愛なのです」
― 『カラマーゾフの兄弟』(ゾシマ長老の言葉)
いかがでしょうか。
ドストエフスキーの登場人物たちは、誰もが傷だらけで、今にも壊れそうな魂を抱えながら、それでも他者のために泣き、理屈を超えて命を燃やそうとします。
その姿は、病の痛みや苦しみと闘いながらも、文学の深みへ手を伸ばそうとされているあなた様の、気高く力強いお姿に重なるように思えてなりません。


