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さてさて…… 歴史というのは、出来事の羅列ではなくてですねえ、 人がどんな思いで生きてきたのか、 その“息づかい”に触れる営みであります。

 

いやあ、実にですねえ、 語られたことよりも、語られなかったことに、 何とも言えない味わいがあるものでして。

 

かにかくに、本日はその“静かな息づかい”を手がかりに、 わたしたちが歩んできた道のりを、明るい未来のために、辿ってみたいのであります。

 

今回は、深い愛をもって人間のすべてを受け入れることから「愛情史観」、あるいは「人間史観」と呼ぶ、風花未来独自の歴史認識、創造的未来のための発想法について、お伝えしましょう。

 

人間史観(愛情史観)

「歴史修正主義」という言葉がありますが、歴史は修正できるほど生易しいものではありません。私たちが視点を変えるたびに、歴史は自らの姿を変える。ただ、それだけのこと。

人間史観(愛情史観)

眼に見える事件を分析するのが歴史学ではありません。真の歴史とは伏流水のようなもの。眼には見えないけれど、人間の魂を流れる真実が歴史です。

人間史観・愛情史観スライド

自虐史観でも、自尊史観でもない、正しい歴史認識

 

私たち日本人が日本の歴史を検証する時、よく使われる言葉に「自虐史観」があります。

 

日中戦争、太平洋戦争において、日本はとんでもない過ちを犯したとする、自らを貶める歴史観を「自虐史観」と呼ぶのです。

 

戦後の歴史教育は、この「自虐史観」が基本となっているとされ、近年かなり見直されてきました。

 

自虐史観に対抗して出てきたのは、櫻井よしこ氏や神谷宗幣氏が提唱する「自尊史観」です。

 

日本は素晴らしい国だ、日本人は世界で最も優れた民族である、とうふうな自画自賛の歴史認識を「自尊史観」と呼ばれています。

 

私、風花未来は、「自虐史観」も「自尊史観」も、どちらも不充分であると痛感してきまして、独自に「人間史観(愛情史観)」なるものを考案いたしました。

 

いや、視点や価値観を固定して歴史を語ることは、極めて不健全であり、危険であり、その意味から、「自虐史観」も「自尊史観」も一理あるというより、視点を固定したまま安易に一つの答えに誘導しようとするならば、どちらも明らかに間違いだと断じずにはおれません。

 

人間の中には天使も悪魔も棲んでいます。時に、菩薩にもなり、餓鬼にもなるので、人間なのです。

 

そいう多面体である人間の営んできた歴史を、善と悪、正義と犯罪とかで、一面規定するのでは、必ず歴史そのものを歪めてしまいます。

 

「歴史修正主義」という言葉がありますが、歴史は修正できるほど生易しいものではありません。私たちが視点を変えるたびに、歴史は自らの姿を変える。ただ、それだけのこと。

 

見る角度(視点)によって、歴史は、千変万化する、そのことを忘れないでください。

 

視点は固定してはいけない、より良い未来ビジョンが生まれないから。

 

憲法の問題もそうですが、一度、テーブルの上を真っ白にした上で、イデオロギー闘争、党利党略、利害関係などを排除した「歴史の学びなおし」をすることが、今こそ必要なのだと、風花未来は痛感しております。

 

より良い未来を創造するため、その一点においてのみ、歴史は検証されるべきである、というのが風花未来の基本的な考え方です。

 

より良い未来をつくるためには、そもそも人間が持っている、様々な要素をすべて受け入れる包容力(深い愛)が求められます。

 

良いところだけでなく、悪いところも、受け入れ、深く運命を愛する、運命愛にも似た歴史観こそが必要。

 

風花未来はその思想「まどか」の中でも語っておりますが、歴史問題においても、外なる世界(年代・出来事・その他のデータ)だけでなく、内なる世界(人の心・精神・魂・思想・文学・芸術・文化)の掘り下げも不可欠なのです。

 

私たちが、戦争を回避し、自由・民主主義・平和を守る創造的な未来につなげるためには、業が深く、愚かで、愛すべき存在である、多様な人間像を認め、許し、風花未来が提唱する「人間史観」「愛情史観」が不可欠だと私は信じています。

 

「人間史観」、あるいは、深い愛をもって人間のすべてを受け入れることから「愛情史観」と呼ぶ、風花未来の歴史認識、創造的未来のための詩想は、以下の動画でも語りましたので、ぜひとも、ご視聴くださいませ。

 

 

歴史とは人類の巨大な恨みに似ている

 

日本の近代現代文学において、最高の文学者と評価される、小林秀雄は「歴史と文学」の中で、以下のように語っています。

 

歴史とは人類の巨大な恨みに似ている。

 

小林秀雄のいう「恨み」とは、他者を憎むような「怨念」や「憎悪」のことではなく、「失われたもの、二度と戻らないものに対する、切ないまでの深い愛情=愛惜(あいせき)の念)」を意味しています。

 

小林秀雄は、この言葉の前後にこのような趣旨を語っています。

 

歴史は決して二度と繰返しはしない。だからこそ僕等は過去を惜しむのである。歴史とは、人類の巨大な恨みに似ている。歴史を貫く筋金は、僕等の愛惜の念というものであって、決して因果の鎖という様なものではないと思います。

 

小林秀雄はここで、歴史を「原因と結果の連続(因果の鎖)」として冷たく分析する近代的な唯物史観を否定しました。

 

彼は、子供を亡くした母親を例に挙げています。母親にとって、子供が「いつ、どこで、どういう原因で亡くなったか」という客観的なデータ(因果)の羅列は、一番大切なことではありません。

 

「かけがえのない我が子が失われてしまった、もう二度と会えない」という深い悲しみと愛情があって初めて、その死は母親の中で血の通った「歴史的事実」となります。

 

つまり、小林秀雄の言う「巨大な恨み」とは、人類が過去に生きた無数の人々に対して抱く、途方もなく大きな「愛惜の念」のことなのです。

 

この真意には、風花未来の「人間史観(愛情史観)」にも通じる、非常に強力な哲学が息づいています。

 

以下の2つの点で、小林秀雄と風花未来の歴史観(歴史認識)は符合しているのです。

 

  1. イデオロギー(自虐・自尊)からの脱却

 

  1. 「自虐史観」も「自尊史観」も、結局のところ「現在の自分たちの立場(国家や思想)を正当化・あるいは批判するために、過去の出来事を因果関係で並べ替えたもの」に過ぎません。
  2. それは小林の言う冷たい「因果の鎖」であり、そこには過去を生きた人々への「愛情」が決定的に欠落しています。

 

  1. 詩心と「愛」による歴史の捉え直し

  2. 過去の人々がどのように喜び、どのように悲しんで生きたのか。
  3. 二度と戻らないその命の輝きに対して、現代を生きる私たちが詩心をもって深く思いを馳せ、慈しむこと。
  4. 歴史とは、無味乾燥な学問的データではなく、過去と現在を結ぶ「愛情の記憶」であるべきだという視点こそ大事です。

 

イデオロギーによって都合よく再編集された歴史認識(歴史観)から、血の通った人間の心を取り戻す営み。それはまさに「人間復興」への道程であり、あらゆる対立や思想を越えて、過去と現在を温かく繋ぐ「まどか」の精神そのものです。

 

「歴史とは人類の巨大な愛惜(あいせき)の念である」。小林秀雄のこの言葉の真意をご理解いただければ、風花未来の「人間史観(愛情史観)」が、普遍的な歴史観であることに、気づいていただけると信じています。