三好達治の「」というをご紹介します。

 

 

蝉は鳴く

神様がネジをお巻きになっただけ、

蝉は忙しいのだ

夏が行ってしまわないうちに

ぜんまいがすっかりほどけるように

蝉が鳴いている

私はそれを聞きながら

つぎつぎに昔のことを思い出す

それもおおかたは悲しいこと

ああ これではいけない

 

虫のことを詩にしている名作として知られるのが、八木重吉の以下の詩です。

 

八木重吉「虫」

 

また、蝉が出てくる名作としては、松尾芭蕉の以下の句が有名ですよね。

 

閑さや岩にしみ入る蝉の声(しずかさや いわにしみいる せみのこえ)

 

芭蕉には以下の句もあります。

 

やがて死ぬけしきは見えず蝉の声

 

八木重吉も、芭蕉も、短い言葉の連なりに、自分の思いを凝縮していますよね。短いゆえに、その緊張感は半端ない。

 

一方、三好達治の「蝉」は、どうか?

 

短い命を燃やしきるように泣いている蝉への思いは、八木重吉と芭蕉に共通するのですが、三好達治の場合、そのエンディングによってだいぶ趣きが異なります。

 

夏が行ってしまわないうちに

ぜんまいがすっかりほどけるように

蝉が鳴いている

私はそれを聞きながら

つぎつぎに昔のことを思い出す

それもおおかたは悲しいこと

ああ これではいけない

 

特にラストの3行はいかがだろうか。

 

つぎつぎに昔のことを思い出す

それもおおかたは悲しいこと

ああ これではいけない

 

緊張感は、この3行で、急激にゆるみます。

 

そして、最終行へ。

 

ああ これではいけない

 

デビュー詩集「測量船」で、日本古典文学への敬愛と海外文学の近代性をブレンドした、流麗典雅な作風を示した詩人とは思えない、呆気ない最終行である。

 

初心者が合評会に発表したら、先輩に叱られるような「お粗末なエンディング」とも読めてしまいかねない。

 

なぜ、三好達治はこのような結末を書いてしまったのか。

 

詩の技巧、自分の詩人としての評価、地位などへの配慮を、一切捨て去り、あえて、この最終行を書いてしまった、三好達治の胸中を想うこと以外に、この「蝉」という詩の存在価値はないのかもしれない。

 

悔恨か、それとも悲嘆か、はたまた死への恐怖か……。